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書名 アガメムノン 供養する女たち 慈みの女神たち (この3作品あわせて「オレステイア」といいます) 著者 アイスキュロス 訳者 呉茂一 発行所 筑摩書房世界古典文学全集 古代ギリシアの悲劇というと、おおよそ次の話に分類されます。 1.アトレウス家にまつわる悲劇 2.オイディプスに関した悲劇 3.トロイア戦争に関した悲劇 4.アルゴ探検隊およびメディアにまつわる悲劇 5.その他 5のその他とは、ヘラクレス、テーセウス、プロメテウスなどに関した悲劇の ことです。 ギリシアの悲劇詩人というと、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス の3人があげられます。 サラミスの海戦(BC480)にはアイスキュロスが自ら一兵士として 戦闘に参加し、ソポクレスは戦勝を祝う歌舞団の一員となり、さらにエウ リピデスがこの年に生まれた。 とされています。この同じくアテナイに生まれた悲劇作家たちの生年の違いが、 アテナイの隆盛と深く関連して、その作品に現れてきます。 この3人とも約90ずつのの悲劇を書いたといわれてますが、アイスキュロ ス・ソポクレス共に7、エウリピデス19の作品が現存するにすぎません。3 人共に同じ題材を取り上げているが、面白いようにその解釈が異なっており、 しかもそれがアテナイの隆盛に深くかかわっていることが、大変に興味深いと ころです。 さてこれらの作品を読むにしても、まずその悲劇の背景は詳しく知らないと、 わけがわかりません。ホメーロスの「イーリアス」を読むと、最初からアキレ ウスはただ怒っているだけだし、最後はトロイアが亡びるわけでも、アキレウ スがアキレス鍵に矢を射られて死ぬわけでもありません。ましてこの戦争が何 故おきたか、パリスの審判のことやヘレネの誘拐のことなどなにもでてきませ ん。すなわちアテナイの市民にとって、それらのことはあらかじめ自明なこと なのです。したがって、これらの悲劇も背景を見ている市民が当然あらかじめ 知っていることが前提なのです。 それでまずは、アイスキュロスの3部作「オレステイア」です。 これはアトレウス家の、アガメムノン一家にまつわる悲劇です。アルゴス・ ミュケナイの王アガメムノンの弟に絶世の美女ヘレネを妻にもつ、スパルタの 王メネラオスがいます。このヘレネが女神アプロディテの手引により、トロイ アのパリスに誘拐されたことから、トロイア戦争が始まります。武士(ものの ふ)らの王であるアガメムノンはギリシア全軍に出動をかけます。その遠征が 10年かかって終り、アガメムノンが帰国してまず第1の悲劇「アガメムノン」 が始まります。 アガメムノンの留守中妻のクリュタイメストラはアガメムノンの従兄アイギ ストスと深い関係になっており、帰国した夫を殺害する決意をしています。実 はクリュタイメストラにも言い分(変ないいかただな)があって、じつは10 年前ギリシア全軍がトロイアに向かうときに娘イピゲネイアをアリウスの地で 神の犠牲として殺してしまった夫を許すことができません。しかも娘がアウリ スに呼ばれたのは、ギリシア第1の勇士アキレウスと婚礼させるとの偽りの上 だったからです。喜んで花嫁衣装を用意していった母の前で夫は、たかが妻の ヘレネに駆け落ちされた弟のために自分の娘を殺してしまったのです。(エウ リピデスはこれを「アリウスのイピゲネイア」という悲劇にしています) アイギストスにも言い分があります。彼の父テュエステスは兄アトレウス (アガメムノンとメネラオスの父)のために、3人の子を殺され、食膳に供さ れ、なにも知らないままに飽食したあと、兄から真相を聞かされ追放されまし た。テュエステスはあおむけに倒れて食べたものを吐き出し、食卓を足でひっ くり返し、兄の一族を呪ったといいます。この呪いが実現されることになるわ けです。 アガメムノンは殺されて第1部は終ります。ところが悲劇は終りません。第 2部「供養する女神たち」では、アガメムノンとクリュタイメストラの子、オ レステスとエレクトラが父の復讐に立ち上がります。この二人の姉弟のうちど ちらを主におくかにより、詩人達の解釈表現が変わります。ソポクレスとエウ リピデスはともに「エレクトラ」という悲劇を書いて、姉に焦点をあてていま す。 オレステスはアイギストスを殺し、一瞬ためらいますが、母を殺します。こ れで母殺しという悲劇がまた続くわけです。 第3部「慈しみの女神たち」では、母殺しのオレステスが復讐の女神エリニュ スに追われます。これでは悲劇は終りません。アポロンの命によりアテナイに 逃れたオレステスは、弁護人アポロンと検事エリニュスとのあいだで、審判を 受けます。投票の結果、アテナ女神の投じた票によって同数となり、オレステ スは救われます。さらに怒るエリニュスたちに、アテナ女神は彼女らにアテナ イにおける崇拝を約束します。ここで復讐の恐るべき女神たちは、アテナイの 慈しみの女神たちになります。悲劇は終ったのです。 さらにこれでオレステスの苦悩が終ったわけではなく、さらにエリニュスた ちに追いかけられ、最後に実はアリウスの地では死なず、タリウケの神官になっ ている姉イピゲネイアとの再会によって救われるとした悲劇がエウリピデス 「タリウケのイピゲネイア」です。 ともかくアイスキュロスの悲劇は、息もつかせぬような迫力で展開していき ます。アテナイの観客はあらすじは予知できるのですから、この暗い運命的な 抗し難い力に目を見はって引き付けられたことでしょう。 ところで、ギリシアの時代俳優は男だけです。しかもアイスキュロスが俳優 の数を1人から2人に増加したのです。ソポクレスは2人から3人にしました。 それ以前は1人の俳優がコロス(合唱隊)と問答するだけだったのです。 それで2人の俳優が登場人物の仮面をかぶって、交替で出てくるわけです。 そう考えると、凄まじいまでの迫力をもった内容でないとならなかったわけで す。会田雄次「アーロン収容所」
会田雄次が亡くなりましたときに書きました書評です。私の好きな歴史家で した。彼の著作の中で私が一番印象に残っているのは次の本です。 書名 アーロン収容所 著者 会田雄次 発行所 中公新書 定価 700円 ISBN 4-12-100003-X 1962年11月15日初版 日本が戦争をした欧米諸国で、アメリカは南方戦線にて日本軍を「捕虜を作 らない」ということで、皆殺し作戦をやったようなひどい国だが、イギリスは 少しはましな紳士の国であるかのような幻想が、今も存在しているように思い ます。とくに日本が、日英同盟を継続しなかったことこそが日本の最大の失策 であったような言い方によく出会います。それらの論者には、イギリスは日本 を対等の相手として扱ってくれた大事な存在であったというような思いを、私 は見てします。 だがそうした、日本人のイギリス観、西欧人観を一変させてくれるのが、こ の書物と言っていいでしょう。イギリス人にとっての日本人なんて、同じ人間 ではないのです。ロシアの防波堤に利用して、それで終わりにしたいだけの存 在だったのでしょう。同じ人間、同じ文明人だと日本人を思っていたとは、到 底思えません。それを会田雄次は、この書物の中で明らかにしています。 会田雄次は終戦直後から約1年9カ月に渡って、ビルマにて英軍の捕虜とし て過ごします。そのときの体験を描いたのがこの本なのです。著者はシベリア でのたくさんの抑留体験を目の前にして、それよりはずっとましなのだろうけ れども。やはり自分たちの捕虜経験も書かねば気がすまなくなるのです。 だが、私はどうにも不安だった。このままでは気がすまなかった。私た ちだけが知られざる英軍の、イギリス軍の正体を垣間見た気がしてならな かったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪 物であった。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支 配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になっ てきたのだ。私たちは、それを知りながら、なおそれと同じ道を歩もうと した。この戦いに敗れたことは、やはり一つの天譴というべきであろう。 このイギリス人の正体を、著者は捕虜生活の中で深く感じとっていきます。 それは著者にとって、非常に不愉快な体験であったはずです。 一番象徴的にあげるとしたら、次のようなエピソードでしょうか。イギリス 軍の女兵士が、日本軍に捕虜に用事を言いつけるときに、日本兵の前で全裸に なってもまったく平気なことでした。自分のズロースの洗濯すら、日本兵に命 じます。多くの日本兵はあきれ返り、かつ怒りを感じています。つまり、彼女 たちイギリス人にとっては、捕虜の日本兵は。ただの家畜でしかないのです。 だが、さらにこのことは、日本兵ばかりではなく、イギリス軍と一緒に戦った インド兵についても、イギリス人は同じ戦友としてではなく、日本兵と同じ家 畜くらいにしか考えていなかったのだと思います。これがイギリス人のアジア に対する考えでした。それを著者は如実に感じとっていきます。民主主義だろ うが、ヒューマニズムだろうが、自由だろうが、それは要するに白人だけが甘 受すべきものであり、アジア人やアフリカ人は、白人のための家畜同様の存在 なのです。そうした存在の内の日本人がイギリス人等々の白人に刃を向けたの ですから、イギリス人は不快そのものだったのでしょう。 また、著者が強く感じたこととして、これまた有名なエピソードとして知ら れているわけですが、イギリス軍の中の階級差別です。将校と兵隊とは、階級 が違っている、すなわち、将校はみな貴族で、兵隊は庶民なわけですが、それ が日本軍と大きく違う点は、同じイギリス人でありながら、教養だけではなく、 体格から全然違うという点です。 しかし、私たちが一見して士官と兵とを区別できたというのはそのこと からではない。それは、体格、とくに身長である。五尺七寸余(1・75 メートル)の私より背の高いのは下士官や兵ではすくない。五尺四寸くら いのものがすくなくないのである。しかし士官は、大部分が六尺以上もあ ると思われる大男で、私より低いものはほとんどいなかったのである。 しかも、士官はいろいろな武道を身につけており、兵とはゲバルトになって もまったく力が違いすぎるというのを感じます。 著者はこれがイギリス社会の階級制度の姿であることを著者はすぐに見抜き ます。だからイギリスの将校からは、著者が京大を出て、大学の講師をしてい るというのが信じられないと言われます。イギリス軍では、そんなインテリは 兵隊ではなくて、士官であるのが当りまえなのです。 「なるほど、プロレタリアは団結しなければ勝てないはずだ」 これは労働運動をやっていた一戦友のもたらした冗談でもあり、本音で もあった。 このほか、インド兵のことグルカ兵のこと、現地のビルマ人のこと等々を、 捕虜という立場から描いています。イギリス人と一緒に戦わざるを得なかった インド兵のこと、逆に日本と一緒にイギリスと戦ったインド独立軍のことなど、 いろいろなことを考えてしまいました。 でも、日本が戦争をしたことは多くの被害をアジア各地に与えたのは間違い ないとしても、日本の戦いによりイギリスを始めとする欧米諸国の植民地であっ たアジアの国々を、独立させることには、少しは貢献したのではと思い、その ことだけは評価できるのではと思います。少なくとも、ビルマもフィリピンも インドネシアも、インドも何年かは独立の年が早まったのは間違いないことだっ たでしょう。同じ有色人種である日本が緒戦でイギリス軍他を大いに打ち破っ たのは、大きな励ましを与えたはずなのです。赤城宗徳「新編将門地誌」
書名 新編将門地誌」 著者 赤城宗徳 発行所 筑波書林 定価 1冊618円(全3冊) 1986年12月15日第1刷発行 著者の赤城宗徳は、茨城県出身の自民党員であり、農林大臣、内閣官房長官、 防衛庁長官を歴任しています。私はなぜか昔からこの人に好感を持っていまし た。私も同じ故郷であり、彼が平将門の研究家であったからでしょうか。「平 将門」という著書は随分昔に読みました。この著書についてもまたゆっくりと 地図を見ながら読んでみました。 ちょうど将門が活躍し、本拠地としたのは、私の住んでいる下総の地域、今 では千葉県東葛地域と、茨城県の南茨城の地域です。だから、この私たちの地 域には、たくさんの将門の遺跡と、将門に関する数多くの伝承や伝説が残って います。私は将門に関してはたくさんの本を読んできました。数々の資料のみ ならず、海音寺潮五郎、吉川英治、幸田露半等の小説も読んできました。だが、 どうせこうして将門が活躍し、その遺跡がいつくも残っている地域に私自身が 住んでいるのですから、これらの地域を詳しく解説してくれる本を読んでみた かったのです。そうしたものとしては、この本はうってつけです。 著者自身が書いたおどろくほどたくさんの地図が載っています。もちろん将 門時代の地図、すなわち平安時代初期のころの地図ですから、それから現代の 場所を見るのにはかなり苦労します。利根川も小貝川も、手賀沼もそのころも あるわけですが、現代のそれとは大いに違う様相をなしていたようです。 将門の時代の前には、例えば後の江戸の地域も海が入り組んでいて通れなかっ たはずです。国の名前で、例えば「備前、備中、備後」などというのは、都か ら近い順に「前、中、後」と名前がついていきます。「上」とか「下」もそう です。だから、「上野」と「下野」では、東山道の順では、上野のほうが京に ちかいのです。とすると、今の千葉県の国では、「下総」と「上総」は何だか 逆ですね。上総のほうが東海道の順では京から遠いはずですね。これは実は、 当時の江戸の地域は道がなく、道は、相模の国の三浦半島から、上総に渡って、 さらに下総から陸奥の方まで続いていたのです。ちょうど倭健(ヤマトタケル) はこの道を通っています。 こうした古代の時代の地形が、次第に変化してきました。海は次第に後退し て、この関東もだんだん生産に向いた米作りに向いた地域になってきました。 海や湖沼、川と闘いながら、人々は田畑を形作ってきました。長い間かかって たくさんの荒地を開墾してきたことでしょう。私には将門がたくさんの下人た ちといっしょに、鋤や鍬を使って土地を開墾している姿が見えるように思いま す。肥えた土を手にとっている将門の笑顔が見えるような気になってきます。 将門の父の時代から大事にしてきた土地でした。だから、この土地のことで、 同じ一族との争いになっていきます。亡くなった父の土地を伯父や叔父たちが 取り上げようとしたからです。 都に出て皇居の衛士として勤務する青年将門は、やがては故郷に錦をか ざり、父の遺領を保持することを望んでいた。しかし、関東の荒野に馬を 駆り、狩猟の日々を送って育った将門に、京の手振りは性に合わない。ま して当時日常茶飯事となっていた風習の「つけ届け」、すなわち賄賂によっ て立身出世の道を求めることなどは、父親のいない身では出来ない相談だっ たし、朴訥率直、正義感の強い将門の軽蔑するところであった。 一方、下総の父の遺領が伯父国香と、姻戚の源護らの地方官僚に侵蝕さ れつつあると聞いては、じっとしていられない。都は自分の永く住むとこ ろではない。帰去来(かえりなんいざ)と「下司」の職をもらって帰郷士、 荒地を開拓士、武を練って、新天地の実現をはかった。 (「はしがき−わが将門」) そしてどうしてか、将門は怖ろしいくらいの戦争の達人でした。その数々の 戦いも、この本で詳しくその戦いの地図をみていくことができました。 この将門の戦いは、律令政府にとっては最後には恐ろしい存在になっていき ます。将門は坂東の国8か国を総て占領し、新皇を名のっていくわけです。 私にとってどうにも数々の小説にしろ、原典の「将門記」でも、最後を読む のがいやになってきます。どうしても将門が敗北するのが、歴史だったのです から。そして私はどうにも俵藤太(藤原)秀郷を憎む気持でいっぱいになって きます。我孫子日秀につたわる将門伝説のとおり、秀郷を憎むあまり、私は成 田山へはいきません。成田権現は秀郷が将門調伏の祈祷を行ったところだから です。 しかし、死後これほど坂東の民に慕われた英雄は他にいないのではないでしょ うか。関東に初めて政権を置いた頼朝も、将門ほどの人気はありません。太田 道潅も徳川家康も庶民には人気がありませんでした。今も神田祭りが盛大に開 かれています。将門公を祭神としている神田明神の祭りです。明治になって、 将門公は天皇政府によって祭神から追われましたが、昭和59年に復活しまし た。江戸の庶民はいまでは堂々と将門公の祭りを楽しむことができるのです。 私もまたこのお祭りを愉しみにしています。 それにしても、小説ではなく将門公のことを、この私の住む地域を見ながら 知ろうとするのには、なかなか適した資料であると思います。 またそれから、これを出版している「筑波書林」ですが、いい本を出してい ますね。こうした郷土の小さな出版社にいつまでも頑張ってほしいものだと思 います。新井喜美夫「名将」「愚将」大逆転の大平洋戦史
書 名 「名将」「愚将」大逆転の大平洋戦史 著 者 新井喜美夫 発行所 講談社+α新書 定 価 838円+税 発行日 2005年7月20日第1刷発行 読了日 2005年8月20日 この著者の言いたいことは最初の「はしがき」に次にように書かれている点 にあると思われます。 陸軍、海軍ともに等しく大平洋戦争を戦ったのに、陸軍だけが戦犯に問 われて、海軍はほとんど無傷に等しいというのは、結果から見て、何とも 納得のいかぬところである。 思うに、海軍の代表的人物である山本五十六の人気が絶大なのに対し、 陸軍の東条英樹は不評だったので、それが当然のように思い込んでしまっ たのではないだろうか。 これはたしかに言えるかなと思うところでもあります。ただ、私はどうして も東条英樹に関しては、彼が庶民のゴミ箱をのぞいていた事実などが、どうに も好きになれないところですし、また彼が統制派であったこともまた嫌なとこ ろです。だが同時に私は山本五十六も少しも評価できません。米国と戦争をやっ ても勝てないということなら、その通りやらないことこそが彼の進むべき道だっ たのはないのか。 それと、最後の「第八章 清濁あわせ呑まなかった海軍次官───井上成美」 ですが、どうにも私はこの著者の考えには、少しも与したくありません。私は 以下に書きましたように今も考えております。 米内光政と井上成美について少々 このことは、私が歴史を見て考えたということではなく、自らの経験の中で 考え行動をした中で、歴史を見て考えていることです。井上成美は明確に「日 本が戦争には勝てない」と判っていたのなら、戦争を阻止するように動くべき です。あの戦争で亡くなったのは、私の父や母のような普通のどこにでもいる たくさんの庶民です。何もわからないまま、言われるまま戦争に行ったのです。 偶然私の父は生き残れたから、私が存在できたにすぎないのです。 このことはいつでも主張したいな。 (2005.08.21)

更新日:2005年09月20日