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私が 戦時下では悲惨なことがおこる。だから、他国に侵略した側の責任が重い のコメントの中で、以下のように書きました。 > ナチスは水晶事件というデッチあげ事件を起こしています。18,9歳の金 >髪碧眼の若きドイツ少女たちを残忍に強姦殺人をユダヤ人がやったという事件 >があり、怒ったドイツ市民がベルリンにいるユダヤ人たちを自分たちで攻撃殺 >戮した事件です。だが、実はこれはすべてナチスが自作自演したものでした。 私はこの水晶事件(水晶の夜事件とも言われています。1938年11月9 日にベルリンで実際に起きたナチスよるユダヤ人襲撃事件。このときに襲撃に より砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから、 水晶の夜と言われている)、を知ったのは次の小説によります。 フィリップ・カー「ベルリン三部作」 この私より若いイギリスの作家の書いた3つの小説(実に大作だと思います) を読みまして、「俺よりこんな若い人がこうしてあの時代を冷静に描いている のに、俺なんかたいして何も知らないもんな」と反省したものでした。それで、 私はこの小説を読んだときに、このナチスによる(というかドイツの一般国民 がこの事件でユダヤ人を襲撃しています)襲撃事件の水晶の夜事件を脳裏に刻 んだものでした。 でも今私は、この水晶事件についても、もっとちゃんと知らなければいけな いのだということに気がつきました。実際の事実はどうだったのか、言われる ように事件は展開されたのかを私は充分判っていないのではないかと気がつい たのです。やっぱり、いつまでもちゃんと学んでいかなくてはいけないのです ね。 (2005.05.11)少し第2次世界大戦について
「失敗の本質」に関係するかなということで、少し書いておこうと思います。 できたらゆっくり、資料等あたりながらやるべきなのですが、そんな暇も時間 もないし、少しアジりましょう。中途半端で終ることでしょうが。 第2次世界大戦の性格を以下のように分析してしまう見方があります。 1.帝国主義戦争であること。 すなわち、米英仏等もてる資本主義諸国と日独伊の持たざる資本主義諸 国間の帝国主義戦争である。 2.民主主義勢力対ファシズムとの戦いであること。 米英仏、そして中国等と社会主義国家であるソ連が連帯して戦ったのは、 相手がファシズム勢力だからである。 3.結果として植民地解放、民族解放の戦いになったこと。 すなわち、日本軍等に抵抗した諸民族が結果として、再び西欧諸国の植 民地に戻ることなく、戦後独立していったこと。 こうした見解は教科書等でも一般的な記述だと思います。まあ、いってしま えば、日本の講座派的な歴史家が展開している見解だと思います。 私は大学に入学して入ったサークルが歴史研究会で、そこはまたかなりな日 本共産党民青勢力の拠点でもあり、第2次世界大戦についてはこの上のとおり、 主張していたと思います。それに対して、構造改革派的な諸君は、この3つの 点のうち、2番目を激しく問題点として、よく論争していました。何が民主主 義勢力というのだということでしょう。日共は、第2次世界大戦を民主主義勢 力の勝利ととらえることにより、日本戦後の諸改革を全面的に肯定していくわ けです。まあ、「マッカーサー万歳」を唱えた日共諸君ですからね。 馬鹿構改派が何をいおうと、日共諸君と何をいいあおうといいのですが、私 はまったく見解を異にしました。 そもそも、第2次世界大戦は帝国主義諸国間の帝国主義戦争でしかありませ ん。教科書等々では、世界大恐慌に対して、英仏はブロック経済にて、米国は ニューデール政策、ソ連は5カ年計画という社会主義政策でのりきったが、日 独伊はうまく対応できず、それが日本の大陸侵略、イタリアのエチオピア侵略、 アルバニア併合、ナチスの各侵略になっていくとされるわけです。 私はそれに対して、日独伊および英仏そして米国等はすべて大恐慌をのりき ることはできなかった(ただ本当はドイツだけは、たくさんの政策で、唯一恐 慌を乗りきれた面があるかと思っています)。もはやこれらの国々は戦争とい う手段しかなかったのだということを主張しました。 米国のニューデール政策など少しも成功はせず、米国は戦争という解決作を ひたすら待ちこがれて求めていたというのが本当だと思います。ころごろ、ど うやらこうした見解を証明してくれる数々のものが出てきたように思っていま す。米国が大恐慌からたち直るのは、日米開戦と独伊の宣戦布告以降です。 ソ連に到っては、資本主義に少しだけ首をつっこみつつある、封建制の国家 であり、これまた戦争のみ欲していたというところでしょう。また中国にして も、国民党、共産党問わず、日本との全面戦争のみ欲していたのは間違いない と思います。中国共産党に至っては日本に宣戦布告すらしています。 もうすべての勢力が戦争によって恐慌から抜け出せる、あるいは勢力拡大が できると考え、ひたすら戦争に走っただけです。したがって、2.の「民主主 義対ファジズム」なんて図式は少しもありません。スターリン主義(これこそ が共産主義と言っていいのだ)がどうファシズムと違いがあるのですか。ソ連 は第2次大戦で莫大な人的損害をこうむっているわけですが、ソ連国民を殺戮 したのはナチスのみではなく、スターリン主義が第1のものです。実にソ連国 民は、一番ソ連のスターリンによって殺害されていたのです。 民主主義対ファシズムの戦いなら、なんでスペインフランコは堂々と生き延 びていたのでしょうか。スペインのたくさんの労働者、市民を虐殺したのは、 フランコファシストのみならず、ソ連スターリン主義も同罪ではないのですか。 ソ連スターリン主義こそが、スペインの大勢の労働者・市民を虐殺したのです。 いや、米国だって、英仏だって、フランコをそのままにしたのではありません か。 日本軍に一番抵抗した、フィリピンのフク団を、米軍は日本軍降伏後、マニ ラ郊外で大量虐殺しました。このどこが民主主義勢力なのですか。 第2次世界大戦は、戦争にて全てが解決できると考えた帝国主義諸国の戦争 でしかほかなりません。そしてその結果としては、英仏蘭等は、引続き民族解 放の戦いに引き込まれました。日本軍と一緒に英軍と戦った、チャンドラボー ス率いるインド独立軍は、戦後もインド独立のための存在しえました(ボース そのものはそうできませんでしたが。これは私はたいへんに残念です)。 私はこれが第2次世界大戦の本質であったと思っています。その中で、日本 は弱い帝国主義国として、米英ソ連中国の思惑どうり、予定通り負けただけの 話です。この本質を、では日本の政治経済の体制の問題として、あるいはまた 思想文化の問題としてさらに検討していく必要があるだろうと思っています。 その中からさまざまな日本の抱えていた問題の本質が見えてくるように考えて います。 (1994.09.13)司馬遼太郎について少々
司馬遼太郎についていろいろと思うことがあります。 「坂の上の雲」でも思うのですが、司馬遼太郎という人は、いわゆる戦前に日 本人の大部分が好きだった典型的な人間をあまり評価しない、評価できない方 のように思います。それが、「坂の上の雲」や「殉死」や他のいくつもの小説 で描かれる乃木希典です。また西郷さんも、実に日本人には好かれた方でした が、これまた、その日本人が贔屓にする西郷さんのことを、その実態に迫りた いという気が、あの「翔ぶが如く」だったかと思います。 ただ、私に言わせていただきますと、日本陸軍参謀本部編纂の、「日本戦史」 の中で、「西南戦争」も「日露戦争」も詳しく扱われていましてね、私には司 馬さんの書くのは、ある意味で、二番煎じにしか思えないのですね。 まあ、「翔ぶが如く」で書かれている西郷像でいいなあ、と思うのは、有名 な次のくだりでしょうか。 熊本や他のところからも西郷軍に参加していた諸隊に、可愛岳(宮崎県延岡 近く)を突破後鹿児島に帰るというときに、解散してもいい旨が伝えられま す。大分県の豊前中津隊にも、他の隊と同じように、鹿児島へ向かわず故郷へ 帰ってもいい旨が伝えられますが、そのときに、この中津隊の隊長である増田 栄太郎が言いました。以下、「翔ぶが如く」からです。 増田栄太郎は、いった。中津隊は熊本協同体と同様、幹部と隊士の関係 は平等で、敬語はつかわない。増田はこのとき、自分は諸君から選ばれて 隊長になった、といった。隊長になると、薩軍本部へ行って軍議の席につ らなることが多い、自然、西郷という人格にしばしば接した、諸君は幸い にも西郷を知らない、自分だけが、職掌上、これを知ったが、もはやどう にもならぬ、と言い、たちまち涙を流した。一座の人々は増田の異常さに おどろき、さらにわけをたずねた。 増田栄太郎がこのとき言った言葉が、文語体になって中津の人々に記憶 されていた。 吾、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得た り。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生 ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせ んのみ。 増田のいうことは要するに、自分は諸君とちがい西郷という人間に接し てしまったのだ、ああいう人間に接すればどう仕様もない、善も悪もなく 西郷と死生をともにする以外にない、といった増田栄太郎の言葉が西郷と いう実像をもっとも的確に言い中てているかもしれない。 (「翔ぶが如く」第七巻「風を結ぶ」の章) この小説の中では、私が一番好きになれたところです。西郷隆盛南洲公とい う人は、こんな方だったのだろうと、私もいつも想像してきたものでした。 もうこの増田栄太郎の語られた言葉こそ、もう「大西郷」という人を表した ものではないのかと思います。西郷という人には、誰も、理窟ではなく、ただ ただ惹かれていってしまうのでしょう。 ただおそらく、こうした「訳の判らない日本人の感性」を司馬さんというの は、本当に嫌ったのじゃないかなあ、と私には思えます。だからそれが乃木希 典にも向けられています。司馬遼太郎は、ただただ乃木を小説に登場させると、 なんらの展開も説明もなしに、「無能」という言葉を投げつけます。私がどう しても許せないところであります。「それって、旧陸軍参謀本部の見解と同じ じゃないの」といいたいなあ。 この西郷さんへの、増田栄太郎の言葉を、ある飲み屋で、あるヤクザの親分 さんと話したことがあります。彼もまた、この小説でこのところが一番印象に 残っているということを言っていました。「西郷さんっていうのは、そんな人 だったんだろうな」と、彼もまた遠くを見つめるような視線で言っていました。 私も同感したのは言うまでもありません。 (2003.10.06)15代将軍徳川慶喜(ケイキ)
「周の発言」のサイドバーの「周の掲示板」のバナーの下に、私の友人たちの ブログページのリストが並べてあります。そのページが更新されるたびに、最 新の更新ページ順に上から並び変えられます。 ですから、ここで「NEW」がついたブログは、必ず私は見にいくようにし ています。そして、そのページを見て「なるほどな」なんて頷いたり、「あ、 これはトラックバックしようかな」なんて考えているのです。 ところで、以下のブログで、私が気になることがありました。 ウェスタ社長のじゃじゃ馬日記 いつも私は、この社長のブログは毎日感心して拝見していて、「やはり素敵 な社長だな」なんていつも確認しているのですが、以下の書込みには、「これ はちょっと言わなくては」と思ったものなのです。いえ、この川本社長の書か れた内容には問題は何もないのですが、私は以下の中で、出ていました。徳川 慶喜の写真を見て、それがとても心に残ったのです。 松戸市中小企業融資資金運営委員会 再度いいますが、この文章の内容には、私は何もないのです。ただ、私は徳 川慶喜の写真が気になったのです。というか、私はこの慶喜がどうしても嫌い なのです。許せないのです。 慶喜は、水戸徳川家の第9代藩主徳川景山斉昭(烈公)の息子として生まれ、 若くして一橋家の養子となり、徳川の最後15代将軍になって、大政奉還をし て、いろいろありましたが、とにかく幕府は倒れます。そして慶喜はやがて駿 府に移ります。晩年は東京に住んでいます。 私は生まれは茨城県藤城です。本籍はずっと茨城県笠間にありました。私は 「将門Web」と自分のホームページをなずけましたように、この故郷の下総 (この下総とは、今の千葉県東葛地区だけではなく、茨城県の南部も含んでい ました)で活躍していた平将門様が大好きなのです。 私は自分の祖先は承平天慶のときに、この将門さまのもとで戦っていたと信 じています。そうすると、明治維新のころはどうしていたかといいますと、そ れはもう当然に水戸天狗党として活動していたわけです。そして明治になって からは、加波山で爆裂弾をもって義挙する仲間であったし、その後は2・26 で決起する兵士であり、そしてその後は、60年安保闘争での全学連主流派で あり、そのあとは三派全学連であり、そして全共闘であったと思っています。 そうした私たち水戸天狗党にとって、どうしても許せないのが、この慶喜な のです。水戸天狗党は、いろいろとありましたが、筑波山の蜂起のあと、やが て京都を目指して、中山道を長征します。辛い冬の雪の季節です。 天狗党はあちこちで戦いながら、最後に越前敦賀で加賀藩に降伏します。そ れは天狗党が頼みと仰いだ慶喜が現れたからなのです(実際に天狗党の前に出 てきたわけではない)。でも慶喜は、自分を頼みとするこの水戸天狗党を見殺 しにします。 このときは、慶喜は、自分も天狗党派と見られるのを恐れたのだといいます。 だがために水戸天狗党のほとんどは、ここで刑死し、そして鰊小屋の中で惨め に死んでいきました。 だが、このとき、天狗党の首領武田耕雲斎の孫の金次郎が、若年(18歳だっ た)ということで、刑を遠島ということで(実際には遠島にならなかった、明 治維新になったからである)命存えます。この金次郎が、維新のとき官軍となっ て、水戸へ行き、今度は天狗党を殺した、水戸の門閥派、水戸諸生党を殺し始 めます。金次郎のかぶる白いシャグマ(幕末官軍のかぶるやつ)は諸生党の血で 真っ赤に染まっていたと言われます。 敵である水戸諸生党は、当初は奥羽列藩同盟の軍に加わり、会津で官軍と戦 いますが、会津藩降伏後、新撰組の土方のように函館へ行くのではなく、何故 か諸生党だけは水戸へ帰ってくるのです。そこでまた水戸天狗党との最後の血 戦、最後の殺戮戦が開始され、そして終ります。当然天狗党が勝利し、またさ らに諸生党を根こそぎ殺し始めます。もうお年寄りも、赤子もすべて殺します。 実は天狗党も先年、諸生党に、同じように、身内をすべて殺されているのです。 このために、水戸には、今現在にいたるまで、優れた人材がいないと言われ ています。みな死に絶えたのです。みな殺してしまったのです。 だが許せないのは慶喜です。このとき、両派の殺戮戦を黙ってみているのが、 当時水戸に蟄居している慶喜です。私は声をあげていうのです。 お前が何故出て行って止めないのだ。お前なら止められるじゃないか。 私にも水戸天狗党の血が流れています。諸生党はやっぱり憎いです。でもで も、このときの殺戮戦はやめるべきです。絶対にやめるべきでした。そしてそ れをできたのは、水戸斉昭の息子であった、慶喜ではないですか。このときも また、慶喜がわが身だけが可愛いかったのでしょう。そんな男です。そんな人 物です。 だから私は嫌いです。大昔から嫌いです。彼の写真を見ても、彼のやったこ とを読んでもただただ不愉快な思いだけです。 後年明治の終わり頃、慶喜はある新聞記者の問いに応えていることがありま す。何故簡単に朝廷に政権を帰したんだという問いに、こう応えたのです。 それは我が水戸藩には、代々神君家康公の遺訓が伝わっていた。「それ はいつの日か、徳川宗家と、朝廷が戦うような事態になったら、水戸家は あくまで朝廷側に立つようにすること」ということであった。私はあくま で、水戸家に代々伝わるこの家康公の遺訓に従っただけだ。 この話を読むと、 隆慶一郎「影武者徳川家康」 をはじめとする隆慶一郎のいわれたことが本当に思えてきます。 あ、それから、念のため。私はこの慶喜を、「ケイキ」とだけ読みまして、 「よしのぶ」とは読んでいません。「よしのぶ」なんて誰がいいはじめたので すか。「ケイキ」という音(おん)の読みは間違いではありませんが、「よし のぶ」は判りませんよ。この字の本当の読みが判るのは、親父の徳川斉昭と、 慶喜(ケイキ)本人のみです。このことはまた別に書いていきます。 慶喜は大正2年まで生きています。大正2年というと私の父が生まれた年で す。慶喜は写真も好きだったようですね。ほかにもたくさん趣味があって。 でも、政治にだけは一切関わりを持ちませんでした。 彼は、聡明だと言われ、最初14代将軍の候補の最右翼でした。この一橋慶 喜を推す勢力(一橋派)と紀伊紀州藩主徳川慶福を推す勢力(南紀派)が、そ れぞれ水戸徳川斉昭と井伊直弼を旗頭に対立しました。これに南紀派が勝利し て、一橋派を弾圧したのが、安政の大獄です。 このときが、慶喜は政治の恐ろしさをまず最初に感じたのではと思います。 その後の歴史は、以下の通りでした。 元治元年(1864) 3月 天狗党、筑波山挙兵 6月 新撰組、池田屋を襲う(池田屋事件) 7月 禁門の変 8月 第1次長州征伐 12月 天狗党、加賀藩に投降 慶応元年(1865) 2月 天狗党処刑される 4月 長州再征発令 慶応2年(1866) 1月 薩長連合成る 7月 将軍家茂、大坂城中で没 8月 慶喜、徳川宗家家督相続 12月 慶喜、将軍に補任される 慶応3年(1867) 5月 兵庫開港勅許 8月 「ええじゃないか」起こる 10月 大政奉還。討幕の密勅下る 12月 王政復古の大号令 慶応4年(1868 明治元年) 1月 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争起こる) 1月6日 慶喜、大坂城を脱出、8日海路江戸に向う 3月 五箇条の御誓文 4月 討幕軍江戸入城、慶喜水戸へ蟄居 9月 明治と改元 明治2年( 1869) 5月 函館で、榎本武揚降伏 6月 版籍奉還 これだけの短い期間に、これだけのことが起きています。慶喜にとっては、 実にその後の人生のほうが長かったことでしょう。まあ、誰もがいうことです が、決断力のない方でしたね。決断したのは、身内(武田耕雲斎と慶喜はとて も親しかった)の天狗党を切り捨てることと、鳥羽伏見のときに、部下たちを 見捨て、大阪から逃げることに関してだけでしょう。 ただ、捨てられたほうは大変でした。今に至るも、私のように、そのことを 怨んでいます。 (2005.02.21)猩々緋という色
私がとっていますメルマガのうち、いつも次のメルマガが大好きです。
PAFFIN's NEWS
このメルマガの「第2号」を読みまして、ここの掲示板に私が書込みました
のが次の内容です。私はこのメルマガの赤色の話を読んで、突如中学生のとき
に読んでいました、菊地寛の小説を思い出したものなのです。
「PAFFIN's NEWS」第2号
愉しく読まさせていただきました。
「無駄に雑学メルマガ編」、今回は「赤色」についてでしたが、興味深く読み
ました。
> そして日本でこの猩々緋を好んだのは、ご存知の通り戦国武将達です。陣羽
>織の目立つ赤色は、すべてこの猩々緋でしょう。(中略)何よりこの強烈な色、
>「我こそは!」と自己主張できる派手さがお気に召したのでしょう。
これで思い出したのが、菊地寛「形」です。以下のような内容です。
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摂津半国の松山新介の侍大将中村新兵衛は「槍中村」として広く知られ恐れ
られていた。彼の武者姿は戦場において、水際立った華やかさを示していた。
火のような猩々緋の服折を着て、唐冠纓金の兜をかぶった彼の姿は、敵味方の
間に輝くばかりのあざやかさを持っていた。「ああ猩々緋よ唐冠よ」と敵は、
新兵衛のやり先を避けた。その新兵衛があるとき、主君の子でわが子のように
慈しみ育ててきた若い侍の頼みにより、その初陣に、猩々緋と唐冠の兜を貸し
てやる。そして、その日、彼は黒皮縅の冑を着、南蛮鉄の兜を被っていた。若
い侍が実に鮮やかな初陣ぶりを見せたのと対照的に、新兵衛に対しては、いつ
もは、羊のように怖じけづき、うろたえ逃げ惑う敵が、その日に限ってびくと
もしない。むしろ勇み立って立ち向かってくるのであった。こうして、彼はこ
の日、敵の槍によって殺されてしまったのである。この作品には形の持つ不思
議な力、恐ろしさというものが、実に巧みに描かれている。中村新兵衛が敗れ
たのは、戦場で一際華やかな猩々緋と唐冠の兜という形を失ったからである。
その形を失った新兵衛は、ただの侍に過ぎない。猩々緋と唐冠の兜という形の
持つ不思議な魔力を失ってしまったのである。
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私がこの小説を始めて読んだときに、この「猩々緋」という色が頭の中に刻
みつけられたものでした。なんとなく「緋のように赤い色なのかな?」なんて
思いでした。武田信玄の騎馬隊が真っ赤な鎧を着ていたのも、徳川の井伊家の
赤備えも、みなこの「猩々緋」の色だったのでしょうね。
思えば、色というのは聴覚の次に発達する視覚が、真っ先に感ずるものなの
でしょうね。私はそんな風に思いました。
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聴覚と視覚の空間性と時間性
関係の概念は、かならずしも眼に視えるものだけをさすとはかぎらない。心
的世界が関与しているかぎり視えない関係も含まれる。そして、この視えない
関係を人間が了解しうるにいたったことには、聴覚がかなりな深さで加担して
いるようにおもわれる。天空や自然森林の奥から聴こえてくる音や叫びが、ど
んな対象から発せられたか判らないとき、人間はその対象物を空想においてつ
くりあげた。そして視えないものを視えるものにおきなおすすべを意識として
えたとき、人間の関係の世界は、急速に拡大し、多様になったとかんがえられ
る。聴覚と視覚の空間化度が、そのまま時間性として受容されることがありう
るのは、このふたつの感官作用が、視えない関係概念を人間にみちびくのに、
本質的に参加しているからである。
(「心的現象論序説V心的世界の動態化」1971.9.30北宋社)
だから人間は自然の中に見えるはずのないものを想像してしまったのだ
ろう。それを聴覚で感じとることができたときに、視覚の上でも見えるは
ずのものになってしまった。だがやはりこれが心的世界なのだなと思った
ものである。
(私の「吉本隆明鈔集」より)
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おそらく、古代の人間たちは、森の奧から聞える音から、巨人や神を視覚の
上でも見たと想像してしまったのだと思いますが、はっきりと視覚で捉えられ
たものは「色」ではないのかな。とくに「赤い色」というのは、真っ先に感じ
たものではないのかな、なんて勝手に想像しました。
それにしても、有意義で愉しく面白いメルマガをありがとうございます。
(2004.11.30)
更新日:2005年08月11日