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いつも誰かとの送別のときに詠ってくれと言われる詩があります。あまりに 有名な詩ですから、少々羞しい気もするのですが、何度も吟ってきました。 送元二使安西(註1) 王 維 渭城朝雨邑輕塵 渭城(註2)の朝雨軽塵を邑(註3)す 客舎青青柳色新 客舎青青柳色新たなり 勸君更盡一杯酒 君に勧む更に尽くせよ一杯の酒 西出陽關無故人 西のかた陽関(註4)を出れば故人(註5)なからん (註1)安西 西域に通じる要地。 (註2)渭城(いじょう) 咸陽。長安の西北にある町。西へ旅する人を ここまで見送り、駅舎で一夜の別宴を張る。その翌朝の風景がこの 詩である。 (註3)邑 この字は本当はさんずいがついている。 (註4)陽關 西域に行くのに通過する関所。玉門関の南にあたるので陽 関という。 (註5)故人 古いなじみの友人。 一夜明けた渭城の朝、降った雨が塵をぬらしている。 旅館の庭の柳も青々と生気をとりもどしている。 さあもう一杯飲み乾したまえ。 西のかた陽関を越してしまえば、もう友人もいないのですから。 これは送別の詩としては一番知られているかと思います。中国でも日本でも 古来から別れの時に詠われていたようです。 ふつう吟うときには、最後を3度繰返して詠うので、「陽関三畳の詩」とも いわれています。その吟い方は以下のようです。 渭城の朝雨軽塵を邑す 客舎青青柳色新たなり 君に勧む更に尽くせよ一杯の酒 西陽関を出れば故人なからん なからんなからん故人なからん 西のかた陽関を出れば故人なからん そして吟じ方も少し工夫がいります。 思えば、私もさまざまな送別の時にこの詩を詠ってきました。中国のある女 性の送別の時にも吟ったことがあります。中国とは詩の吟じ方がかなり違いま すから、音だけではすぐに何の詩か理解できないでしょうが、やがて王維のこ の詩と判ってくれたようです。 しかし、たとえ別れるときにしろ、酒と詩があればそれはいいものですね。 そしてまたその友が帰ってきてくれたときの酒と詩もいいものでしょう。王誠齡「閨怨」
唐の時代、辺境に出征した夫のことを思う詩はたくさんありますが、これも
またいい詩です。
閨怨(註1) 王誠齡
閨中少婦不知愁 閨中の少婦(註2) 愁を知らず
春日凝粧上翠樓 春日粧を凝らして翠楼(註3)に上る
忽見陌頭揚柳色 忽ち見る(註4) 陌頭(註5)揚柳の色
悔教夫壻覓封侯 悔ゆらくは夫壻(ふせい)をして 封侯(註6)を覓
(もと)め教(し)を
(註1)閨怨(けいえん) 閨は女性の寝室。ここでは女性の意味。怨は、
ものおもい、なやみ。
(註2)少婦(しょうふ) 若い婦(よめ)
(註3)翠楼(すいろう) 高く塗った高楼。
(註4)忽見 ふと目にうつる
(註5)陌頭 陌(みち)のほとり
(註6)封侯 諸侯となって、土地を与えられる
奥深い部屋に住む若い婦(つま) 年が若いので屈託がない
春の日お化粧をととのえて、きれいな高殿の登ってみる
ふと目に入ったのは路傍に目をふく柳の色
ああ、あの人に言うんじゃなかった。戦地を行って手柄をたてて、大名に
になってくださいなんて、頼むんじゃなかった
いい詩ですね。好きになれる詩です。幼い妻なのでしょうね。こうして悔い
てみても夫は帰れないこともあるかもしれないのです。
何度読み返しても、この幼い妻の気持に、最初少し笑いながら、そしてまた
彼女の思いを考えてしまいます。そして笑ってはいられない気持になります。
(2005.06.21)
韓愈「左遷至藍関示姪孫湘」
私は筑摩書房の「世界古典文学全集」という全集を昭和三九年三月に「ホメー
ロス」が最初発行されたときから、購入してきました。全部で五〇巻なのです
が、例えば正史「三国志」は当初の予定は一巻の予定が三冊になったりするこ
とがあり(しかも当初は訳者はかの高橋和己の予定だった)、冊数がかなり増
えてきました。そしてそれからの約三〇年余を経て全巻発刊終了しました。そ
の最後の最後に発刊されたのが、「老子・荘子」だったのですが、同じく最後
のほうの発刊だったのが「韓愈T」「韓愈U」でした。
この韓愈なのですが、私たち日本人にはそれほど親しい中国の詩人(詩人と
いうよりは政治家として知られているかもしれません)とも思われません。多
分杜甫、李白、白楽天、陶淵明、蘇軾のそのあと、杜牧とか王維、張継などに
もさらに下まわるような親しみかと思います。私も彼の詩はほとんど知りませ
ん。ただ私がいつも口ずさんできた詩がひとつだけあります。
韓愈は盛唐の時代七六八〜八二四年に生きた思想家、政治家、散文家、そし
て詩人です。超自然の存在を尊敬せよという仏教を激しく攻撃し、ために時の
皇帝の怒りをかいました。彼には自覚された人間への深い愛があったと思われ
ます。
この詩は元和元年(八一九)の作です。
左遷至藍關示姪孫湘 左遷されて藍関(註1)に至り姪孫湘(註2)に
示す
韓 愈
一封朝奏九重天 一封朝に奏す九重の天(註3)
夕貶潮州路八千 夕べに潮州(註4)に貶せられる路八千
欲爲聖明除弊事 聖明(註5)の為に弊事(註6)を除かんと欲す
肯將衰朽惜殘年 肯えて衰朽を将つて残年を惜しまんや
雲横秦嶺家何在 雲は秦嶺(註7)に横たわつて家何にか在る
雪擁藍關馬不前 雪は藍関を擁して馬前まず
知汝遠來應有意 知る汝が遠く来たる応に意有るべし
好收我骨瘴江邊 好し我が骨を収めよ瘴江(註8)の辺
(註1)藍関(らんかん) 首都長安の東南三〇キロほどにある関所
(註2)姪孫湘(てつそんしょう) 姪孫は兄弟の孫、韓湘が見送りに来
てくれたことに対して示したのがこの詩である
(註3)九重の天 天子の宮廷を比喩的に言った
(註4)潮州 広東省潮陽県
(註5)聖明 天子
(註6)弊事 仏骨即ち釈迦の骨を礼拝することをいう
(註7)秦嶺 潮州に至る途中の山
(註8)瘴江(しょうこう) 山川に毒気があるのでこの名がついた
朝に仏骨を論ずる一文を朝廷に奉った為に
その夕には路八千里もある潮州に流されることになった
天子の為に弊事を除かんと決意したからには
かく衰えて先のない短い身を惜しむものではない
ここまで来てみれば雲は秦嶺に横たわって自分の家、家族はどこにあるかわ
からない
行き先の藍関は雪に閉ざされ馬も進まない
お前がわざわざ来てくれたのは何か意があってのことだろう
私は客死するだろうから骨は瘴江の辺に埋めてくれ
実際にはこの流罪は翌年、憲宗の崩御とともに、許されて都に還れたわけなの
です。
私はこの詩を知ったのは、東大闘争での府中刑務所の拘置所の中ででした。ちょ
うど雪の多い年で、この詩の内容が当時の私のおかれていた情況に似て思え、よ
く独房の中で声にして読んでいたものでした。
また私もサラリーマンだったときに何らかの提案を会社に出しても、それが無
視されるときに、よくこの詩を思い出し、「一封朝に奏す九重の天 夕べに潮州
に貶せられる路八千」と口ずさんだものです。
木戸孝允「偶成」
維新の三傑(西郷隆盛、大久保利通、そして木戸孝允)の中で、長州藩は、 かなりな獅子たちが亡くなりました。だから私はいつも、この木戸孝允を思い 浮かべると、不思儀な思いになってしまいます。思えば、維新の後には、長州 藩にはこの人くらいしか残らなかったのですね。 偶成 木戸孝允 才子恃才愚守愚 才子(註1)才を恃み(註2) 愚は愚を守る(註3) 少年才子不如愚 少年の才子は愚にしかず 請看他日成功後 請う看(み)よ 他日業成るの後 才子不才愚不愚 才子も才ならず 愚も愚ならず (註1)才子 頭がよくよく気がきいている人。 (註2)恃才 才気を誇り、それにたよる (註3)守愚 愚かなように行動する。愚かなりに行動する。 才子は才をたのんでつとめる気がなく、愚者は己の愚かさを知って人一倍 努力する 少年のときは才子よりもむしろ愚鈍なのがよい。 他日事業をなしとげた後を見よ 少年時代の才子が今は才子ではなく、愚かに見えたものが実は愚かではな 全く、その逆であることに気がつくだろう。 本来が同じ長州藩の後輩たる伊藤博文は、むしろ薩摩の大久保利通について しまいます。ここのところは、いつもおそらくこの木戸孝允の実に悔しい思い のところだったのではないでしょうか。 しかし亡くなりましたのは、享年四十五才です。明治維新は誰にでも大変な 出来事だったのだろうなと、つくづく感じてしまいました。(2005.04.11)魚玄機『江陵愁望寄子安』
私がたしか高校生のときに、兄の集英社「漢詩大系」で、この「魚玄機」を 手にとったことがあります。でも中身を読まないままになっていました。 その後大学生になると、もう学生運動ばかりで、漢詩に親しめるのは、逮捕 起訴され勾留された府中刑務所に行くまでありませんでした。ただ、この魚玄 機のことは、森鴎外の小説の思い出もあり、詩を知りたいなという思いばかり で、今になってしまった気がしています。 魚玄機は、晩唐(843?-868?)の時代の長安の人で、始め李億の側室となった が、正妻に嫉まれて咸宜観の女道士となりました。 その後、自分の愛人と使っている侍婢の仲を疑い、嫉妬からこの侍女を殺害 します。ために、彼女は斬刑に処せられます。 江陵愁望寄子安 江陵の愁望 子安に寄する 魚玄機 楓葉千枝復萬枝 楓葉千枝 復た万枝 江湖掩映暮帆遅 江湖に掩映(えんえい)して 暮帆遅し 憶君心似西江水 憶う君が心は西江の水に似たるを 日夜東流無歇時 日夜東流 歇(や)む時なし 幾重にも枝を伸ばした楓の葉が 橋の上までを覆い、 夕暮れの船も ゆったりと進んでおります。 あなたのことを思えば、心はまるで西江の水のよう。 昼も夜も東に流れていって とどまることもありません。 この詩はひたすら夫の帰りを待つ女心をうたったものです。子安は魚玄機の かつての夫李億の字です。魚玄機は、たいへんにこの李億のことが好きだった のでしょう。というよりも、彼女が殺害されることにもなった愛人のこともま たものすごく好きだったのでしょう。 いやおそらくは、魚玄機は愛する相手が、自分を裏切るようなことは許せな かったのではないでしょうか。それが最後殺人にまで至ってしまう、彼女のも のすごい熱情だったように思います。 それにしても、すごい愛の詩ですね。漢詩で愛や恋を吟った詩というのは、 私はほとんど知りません。この詩をずっと眺めてみて、そして詠んでみて、そ の愛の気持の強さに驚いているところです。 また彼女のほかの詩も学んでいきたいななんて思っています。(2005.11.13)雲井龍雄「題客舎壁」
私がけっこうあちこちで詠う雲井龍雄の詩があります。 雲井龍雄「題客舍壁」 題客舍壁 客舎(註1)の壁に題す 雲井龍雄 慾成斯志豈思躬 斯の志を成さんと欲して 豈に躬(み)を思わんや 埋骨青山碧海中 骨を埋む青山 碧海の中 醉撫寶刀還冷笑 酔うて宝刀を撫し 還(また)冷笑す 決然躍馬向關東 決然馬を踊らせて 関東に向こう (註1)客舎(かくしゃ) 旅館 この私の志を成し遂げるためには、どうして自分の一身の安全を考えてい られようか どこで死を迎えようと構わない。草深い山だろうと、碧海の底で死のうと 覚悟はできている 壮途を祝って酒を飲み、腰の刀を探れば、敵を挫いた気持になり微笑して しまう さあ、これから馬を躍らせて関東に行き、薩長の野望を粉砕するぞ 雲井龍雄(天保15年1844〜明治3年1870)は、米沢藩士でした。江戸に出 て、安井息軒の三計塾に通います。この塾の同門に、土佐藩の谷干城(のちに 西南戦争のおり、熊本城を最後まで守り通した官軍の将になる)がいます。 幕末の江戸や京都に赴き、広く各藩の志士と付合いました。とくに土佐の後 藤象二郎とは親しくつき合いました。 そして明治新政府にも参画しています。だが、この新政府が薩長のみで、当 初の理想から離れて行く様を見て、龍雄は義憤を禁じ得ませんでした。鳥羽伏 見の闘いが薩長の計略によって成されたのを見て、龍雄は新政府に3度意見書 を出しています。 そして薩長の意図を挫くため、「討薩の檄文」を草します。関東で兵を募り ますが、この策は敗れます。 明治新政府は米沢藩に託して、龍雄を幽閉します。そして明治3年8月東京 に護送され、同年12月28日小塚原で斬首されました。 この詩は慶応4年(1868)5月3日の作です。この詩は、京都にて土佐・佐 賀の同憂の士と別れの宴をはったときに、龍雄が賦したものです。 なんだかいつも、まっすぐな龍雄を思います。その龍雄の無念さをいつも思 いだします。 私が昔荒國誠に習いました詩です。荒先生はいつも、この雲井龍雄の話をし てくれました。明治生まれの荒先生にとっては、この雲井龍雄は私なんかが思 うよりも、ずっと近しい、尊敬できる人だったのでしょうね。(2004.12.13)黒澤忠三郎「絶命詩」
私が詩吟を詠うのに一番好きなのがこの詩なのです。 絶命詩 黒澤忠三郎(勝算) 呼狂呼賊任他評 狂と呼び賊と呼ぶも他(ひと)の評に任す 幾歳妖雲一旦晴 幾歳の妖雲一旦晴る 正是桜花好時節 正に是桜花の好時節 桜田門外血如桜 桜田門外血は桜の如し 狂人と呼ぼうと、賊徒と呼ぼうと、それはいう人の評に任せよう 井伊を倒した今は、妖雲も一時に晴れた思いである この時はまさしく 桜の咲く三月三日の好時節である 桜田門外の雪の上に飛び散った血も また桜のようであった 万延元年3月3日桜田門外で井伊大老を討った時の水戸天狗党のひとり、当 日拳銃で襲撃の合図をしたとされる、黒沢忠三郎(1840〜1861)の辞世です。 当日は今でいえば、4月の桜の季節なのですが、ときどきいまでもある台湾 坊主(といわれる台湾周辺で発生する低気圧)の気候のおかげで、季節はずれ の大雪でした。 忠三郎は、神田浦三と名を変えて薩摩藩邸に潜伏し、水戸・薩摩の浪士たち と連絡をとりあい、この挙を計りました。 彼の銃撃は合図だけでなく、最初に駕篭の中向けて撃った彼の銃撃が、井伊 大老には致命傷となったということです。忠三郎は武芸に長けていましたので、 大奮闘をしまして、刀が鋸のようになっていたと言われます。身に数創を負い ましたが、老中脇坂淡路守邸に自訴しました。即日細川邸に幽閉され、さらに 移動させられまして、文久元年7月26日斬られました。享年22歳でした。 この詩は、その刑死される日の辞世です。最初「走筆作詩(ふでを走らせて 詩を作る)」と題して、1句目を「呼狂呼賊任人評」と考ました。そのあと、 推敲してこの句になりました。私は意味で、「他評(たひょう)にまかす」と いうところを、最初の句の読み方の「ひとの評にまかす」と詠っております。 この詩は昔埼玉大学むつめ祭(埼大の学園祭)の統一テーマになったことが あります。1971年のむつめ祭のときです。もちろん私が提案して採用され たテーマでした。あのとき以来この詩がやたらに埼玉大学関係のイベントで詠 われるようになりました。ついでにいいますと、70年安保闘争のときにも、 私は集会でヘルメット姿でこの詩を詠いました。 また同じく忠三郎が刑死の日に作った辞世の短歌です。 君がため身を尽くしつヽ益荒雄の 名をあげとおす時こそ待て 忠三郎の思いは、いつも私に伝わってきます。私はいつもどこでも詠ってき た私が一番好きな詩です。 (2003.05.20)項羽「垓下歌」
「将門Webマガジン」の「周の漢詩入門」で、中国の詩の最初に何を紹介し たものかと悩みました。 それでいろいろいろと考えたあげく、項羽「垓下歌」にしました。この詩は 司馬遷「史記」に載っているわけで、司馬遷が作ったのかもしれないとも言わ れていますが、ここでは項羽の詩として書いてまいります。またこの「垓下歌」 の「返歌」とされる虞美人の詩もここであげます。 垓下歌 項羽 力拔山兮氣蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋(おお)う 時不利兮騅不逝 時に利あらず 騅逝かず 騅不逝兮可奈何 騅の逝かざるを 奈何(いかん)すべき 虞兮虞兮奈若何 虞や虞や若を奈何せん 我が力は山をも抜き 我が意気は世を蓋うに足りている 時の運が味方せず 愛馬の騅も今は進んでくれない ああ、騅の進まないのをどうしよう 虞よ 虞よ お前をどうしたらいいのだ 楚の項羽は秦を破りながらも、漢の高祖劉邦との戦いには次第に不利になり、 部下たちも劉邦に降伏して漢の兵となって、項羽を取り囲みます。これがまさ に四面楚歌の状態でした。 この項羽の「垓下歌」に対しての虞美人の返歌が以下の通りです。 返歌 虞美人 漢兵已畧地 漢兵 已に地を略し 四方楚歌聲 四方 楚歌の声 大王意氣盡 大王 意気尽く 賤妾何聊生 賤妾(せんしょう)何ぞ 生(せい)に聊(やす)んぜん 漢の軍はすでに楚を攻略し、 四方には楚の歌声がしている 大王様が気力を無くされては、 私はどうして生きていられましょう このときに虞美人が舞い、その舞が終わったときに、虞美人を項羽は剣で刺 します。そしてそのあと漢の軍勢目がけて最後の戦闘に入ります。 (2005.05.10)高啓「尋胡隱君」
中国の詩といいますと、どうしても唐詩を一番目にしますし、何かのときに も私の口から出てきます。他の時代といいますと、宋の蘇東坡の詩が思い浮か ぶくらいでしょうか。 ただ、明の時代の高啓(1336〜74)の詩だけは、これまた思い浮かん できます。ただ、彼は有能な詩人でもあったと思うと同時に、また不幸な最期 でもあった人だなと思い出してきます。 尋胡隱君(註1) 高啓 渡水復渡水 水を渡り 復 水を渡り 看花還看花 花を看 還 花を看る 春風江上路 春風 江上(註2)の路(みち) 不覺到君家 覚(おぼ)えず 君が家に到る 川を渡り、また川を渡り そして花をみて また花をながめる 春風の中 のどかな川ぞいの路をたどるうち いつの間にかあなたの家についていた (註1)胡隱君 胡は友人の姓。隱君は役人にならず隠居している人。 (註2)江上 江は長江、またはその支流。 この詩もまた私は習ったことがありません。要するに私は漢文の授業という のがまともになかったのです。でも、この詩は実によく知っていたものでした。 この高啓は実にたくさんの詩を作りました。現存の詩だけでも二千余首あり ます。 私には、明という時代が、この詩人によってのみ、何故か少し親しみが湧い てくるものです。 (2005.10.05)高啓「梅花」
梅の花を詠った詩として林逋「山園小梅」と双璧とされるのが、この高啓 の詩です。 高啓の気持は第1・2句と第7・8句に表れています。やはり梅という花は 日本だけではなく、中国でも寒い季節に咲いてしまうのは、寂しくも感じられ るのでしょうか。 思い出せば、昔桜の花見と違って、梅見というのはとにかく寒いことを覚悟 していたものでした。 梅花 高啓 瓊姿只合在瑶台 瓊姿(註1)只だ合(まさ)に 瑶台(註2)に在るべきに 誰向江南處處栽 誰か江南に向(おい)て 処処(しょしょ)に栽えたる 雪満山中高士臥 雪は山中に満ちて 高士(註3)臥し 月明林下美人来 月は林下に明らかにして 美人(註4)来たる 寒依疏影蕭蕭竹 寒には依る 疏影(ざんこう)蕭蕭(しょうしょう)たる竹 春掩残香漠漠苔 春には掩う 残香(そえい) 漠漠(ばくばく)たる苔 自去何郎無好詠 何郎(註5)の去りてより 好詠(こうえい)無く 東風愁寂幾回開 東風に愁寂(しゅうじゃく)として 幾回か開く (註1)瓊姿(けいし) 玉のように美しい梅の姿。 (註2)瑶台(ようだい) 仙人の住む所。 (註3)高士(こうし) 高尚な人。梅をさしている。 (註4)美人 梅をさす。 (註5)何郎(かろう) 梁の詩人、何遜。揚州の官舎にあった梅を見た いばかりに、転勤した。 玉のような姿は、まったく月の世界こそに 似つかわしいのに、 それを誰が江南の地のあちこちに植えたのだろうか 雪が山中にいっぱいのときは、高潔の士が臥しているようでもあり、 月が明るい夜には、林の下を美人がやってくるようだ姿だ 寒い時には、まだ花の少ないまばらな枝が寂しそうな竹に寄り添うし、 春になれば、残り香が薄暗い苔の辺りにまで覆うように漂う。 あの何郎がいなくなって以来、梅をうまく詠んだ詩もなく、 春風の中、寂しく何度花を咲かせたことだろうか。 梅の花も、私たち日本人も好きな花として昔から詠ってきました。ただ、桜 と違って、梅は中国のものだという気持があったような気が私にはしています。 春とはいってもまだ、寒い中に咲き出すのが梅の花という感じを私は持って います。 梅の木は、私の父に家に昔からありました。小さな植木として、鉢にもおか れていました。桜とは違って、個人の家庭でもこの花はいつも見ていられるも のでした。 詩としても、梅は私たち日本人もたくさん詩ってきたものです。今思い出し ましたのは、新島襄の「寒梅」です。これは私も人前で詠ったことがあります。 もちろん菅原道真の短歌はすぐに思い出します。 梅は、私たちにも実に親しい花なのですね。 (2005.11.17)高適「除夜作」
大晦日の夜というのは、私はいつも家族と一緒に居られることこそが嬉しい のです。このことは昔からそうでした。 もっと思い出していくと、私が21歳の大晦日には、留置場にいてそのとき はさまざまなことを思ったものでした。私が逮捕された事件は、かなり大きな 出来事であり、「間違いなく、来年のこの日もどこかの刑務所の中の拘置所に いるのだろうな」という思いだけでした。 除夜作 高適 旅館寒燈獨不眠 旅館の寒灯独り眠らず 客心何事轉凄然 客心何事ぞ 転た凄然 故郷今夜思千里 故郷今夜 千里を思う 霜鬢明朝又一年 霜鬢(註1)明朝 又た一年 (註1)霜鬢(そうびん) 霜のように白い髪 旅館のものさびしい灯のもと 独り眠むられぬ夜をすごしている 旅の身の私はどうしてこんなにもさびしさを感じるのだろう 故郷の肉親たちは きっと今夜千里へだてた私のことを思ってくれている はずだ 一夜開けた明日この白髪の身は また一つ年齢を加えるのだ 作者の高適は、この日はもうかなり高齢であり、旅先でのほの暗い灯のもと で、ただたださびしい、侘びしい思いだけだろうと想像できます。 何度読みましても、作者である旅人のさびしさと故郷の家族への思いを感じ ます。老齢であると、あと何度家族と一緒に大晦日の夜を過ごせるのだろうと 考えるに違いありません。そしてそれは私の姿でもあるのだと思えるのです。 (2005.09.05)高適「別董大」
別れの詩といいますと、私は以下の詩を何度も詠ってきました。 王維「送元二使安西」 私の長女の結婚式でも、この詩を吟ったものでした。 萩原家からは誰も何の挨拶もなかった(2004.05.24) 同じくこの高適の詩も別れのときに詠う詩として好きです。 別董大 高適 十里黄雲白日? 十里黄雲(註1) 白日(註2)?(くも)る 北風吹雁雪紛紛 北風雁を吹いて 雪紛紛 莫愁前路無知己 愁うる莫かれ 前路知己(註3)無きことを 天下誰人不識君 天下誰人(たれひと)か 君を識らざらん (註1)黄雲(こううん) 黄塵を吹き上げた雲 (註2)白日 太陽 (註3)知己 自分の才能を知ってくれる人 空には、十里のかなたまで黄塵がたちこめ、太陽も暗く淡い 北風は雁を激しく吹き送り 雪は紛々として降りしきる でも君はこれからの旅路に親しい友がいないなどと嘆くことはない 天下に君をことを知らぬものは、誰もいないはずなのだから 1970年にこの詩を吟うことを、荒國誠先生にならったことを思い出しま した。中国の唐時代の風景は想像しても、なかなか私の脳裏には浮かんできま せんが、この董大と別れることへの高適の思いだけは今の私にも充分に伝わっ てきます。 (2005.07.12)

更新日:2005年12月29日