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今回の村山政権成立に関する吉本さんの見解をはじめて読むことができまし た。 題名 情況との対話第18回−豹変する政治プラン 著者 吉本隆明 掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1994年9月号 はっきりと「おもわずゲェッと吐きたくなるほど、最悪の内閣ができたとお もった」と言っています。私は「吐きたくなるほど」ではありませんが、こう した吉本さんの言い方に「いいな、いいな」とつぶやいてしまいました。 ひとによっては自民党と社会党という水と油が「さきがけ」を乳化剤に して保守も進歩もない、また右翼も左翼もない<野合>を遂げたと評するむ きもある。また田英夫や国弘正雄らのリベラルソフトの徒党にとっては、 祝盃をあげるところをテレビ映像に披露するほどの快挙だということにな る。また構造・構改のマルクス主義者浅田彰や猪口邦子などにとっては、 思惑どおりの政府ができたことにちがいない。わたしの感想は正反対だ。 おもわずゲェッと吐きたくなるほど、最悪の内閣ができたとおもった。で も前に(前々号参照)書いたように、まんざら奇妙な取りあわせだとはお もわなかった。農業問題(食管法、農産物自由化、農村票)を基準にすれ ば、その保守反動性は自民と社共に共通だといえる。わたしはこの村山内 閣に共産党が参加するかあるいは与党化すれば、最悪の内閣としての条件 は申し分なく整うとおもう。事態はそうなればとてもはっきりする。 まったく、これに日共が参加すればまさしくはっきりしますね。ただそうは ならないようですね。日共はそんなことより、宮顕は丸山真男けなしに一生懸 命というところでしょうから、まったく現在の情況には無縁な存在なのです。 それにこれ以上最悪にはしてほしくありません。 わたしが村山内閣の出現を最悪だというのはほかでもない。自民党は、 資本主義がふるい体質の時期のように資本や企業体によって生産を制せら れ、サラリーマンや労働者が喰べるために仕方なくそれに従事して働くと いった事態ではなくなって、消費的な生産や消費支出の場面に大部分の重 点が移されてしまったことを資本や企業体が反省することなしに現在の社 会を動かせると、いまも考えているし、社会党はスターリン的な社会主義 インターの意識のままで、ただ理念に水を薄め、甘味を加えてソフトにす れば済むと考えたままで自民党と連合すればいいとかんがえていることが、 最悪だというのだ。 たしかに自社はもう55年体制は終ったといいながら、どうして終ったのか、 一体何が終ったのかということが判っていないのだと思います。まさしくそう したあいまいさのみで結局はなんとかだらだらと続いていくような内閣である ように思います。 とはいえ、こうした内閣が出来てしまったのは、現在野党になってしまった 側の責任も重大だと思います。とくに今回は小沢一郎の最大の敗北であり、彼 にこそかなりな責任があるように思いました。吉本さんは小沢を強引だとは思 わないと述べているのですが、私にはどうにも強引すぎたやり方だったように 思います。 わたしは小沢一郎に欠陥があるとすれば、特定の党派や阿呆としかいい ようのないスターリン主義の残党などの評価はどうでもいいのだが、一般 の国民大衆からみたらじぶんの政治的な挙動がどう視えるかという複眼の イメージをたえず繰り込んで判断できなかったことにあるとおもう。 この複眼のイメージをたえず繰り込むというのは、政治家のみならず私たち がいつも身につけているべきことであるように思えます。その点では小沢の率 直さはなかなかいいのです。マスコミ等にいいたいこという姿勢などは感心し てみていました。だが結局は彼の考える政治とはやはり密室政治、料亭政治か ら抜け出ているように思えないのです。 わたしは小沢一郎を政治家には稀な率直な言動の持主で、わたしたち一 般の国民大衆のところまで人間を感じさせることができる近来にない政治 家だとおもってきた。しかし数年まえ何の失政もない東京都知事を下ろそ うとした動きからはじまり、社会党を除外して統一会派「改新」をつくろ うとしたり、海部俊樹を唐突に首相候補にもってきたりした言動を終始み ていると、早急さのあまり一般の国民大衆の願望がどこにあるのかを見失っ てしまっているとかんがえざるをえなかった。政治党派や文化知識人から ファシズム呼ばわりされても、本質的にはどうということはない。だが一 般の国民大衆から理解できるイメージを失ってしまったら、政治家や政治 運動家としての意味は半減してしまうのだ。もっときびしくいえば政治家 (政治運動家)失格なのだ。 思えばあの都知事選のときには、アントニオ猪木おろしの時に土下座したと までいわれています。おそらくは密室の中で行われることは、一般大衆には知 りようがないし、関係ないことだという政治姿勢を感じてしまいます。こうし て吉本さんに政治家失格とまで言われてしまうと、これはこれは小沢はショッ クでしょうな。 一般の国民大衆は政党のイデオロギーの差異については第二義以下の大 ざっぱな判断しかもってはいない。だがどんな立派な政治基本方針やイデ オロギーを掲げても、実際にじぶんたちのところまで響きが伝わってこな い行動をすれば、即座に第一義的な判断ができる存在だということは忘れ てはならないといえる。 忘れているのは、自社さきがけの政権側の大部分の政治家であり、また小沢 も同じであったといえるのではと思います。 だがけっして世界が暗く、よくなくなったのではなく、こうして政治なんて それほどのものではない、本来は俺たちみんなで自前でやっていかないとどう にもならないようだと、たくさんの労働者、経営者、私たち国民に知らしめて くれたことは、それはまた良かったと思います。 そして吉本さんがいうような時代世界になっていることを、おそらくは現在 の与党にしろ野党にしろ、何人かの政治家たちは気がついているように思いま す。その人たちがきっとやがてはもっと政治の前面の出てくる時代がくるであ ろうことを、私は信じていたいと思っています。 (1994-08-12)サリン考
題名 情況との対話第27回−サリン考− 著者 吉本隆明 掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1995年6月号 現在さまざまなところで語られているサリン事件およびオウム真理教に関す る一番優れた論考だと思いました。これだけ歯切れのいい気持いい言い方を、 私たちはこの間眼にすることができなかったものです。思えば私たちはとても 嫌になるような情況の場に生きてしまっているのですね。 わたしは自民党と社会党が差異を失って浮遊しながら国政権を掌握して いる現在の政治社会状態と、サリンによる無差別殺傷が犯罪として出現し てきたことと、大手の新聞やテレビ報道機関が無差別に法的確定の以前の 段階で特定の個人や集団を犯罪者として葬ろうとする出鱈目な言説ふりま いていることは、絶対に関係あるところに、現在の情況は突入していると おもっている。この浮遊する社会現象になかに、わたし(たち)はわたし (たち)の理念を確定すべき課題を背負っている。誤ることは恐れるべき でないし、誤らないことを自慢したりすべきでない。ただ無辜の民衆の殺 傷はあまりに悲しくどんな立場でも許されるべきでない。自衛隊合憲と公 言して戦乱の外地に、成員たちを派遣するのだっておなじことだ。 これが一番最後に書かれているところです。本当に私たちは、こんな情況下 にある社会に生きてしまっているんだなと痛切に感じます。 この「サリン考」は大きく2つの部分から成り立っています。1は昨年6月 27日発生した「松本サリン事件」、2は今年3月21日おきた「地下鉄サリ ン事件」です。 松本サリン事件は突如おきた不可思議な事件なのですが、問題はこんな猛毒 ガスをいったい誰が何のために作ったのかいまも一切分からないことと、毒ガ ス発生源に一番近いところの一会社員を、警察やマスコミのみならず私たちま でもがあたかも犯人と思い込んでしまったことにあります。毒ガスを作り、死 者7名、中毒患者30数名を出した犯人はいわば許すことの出来ない犯罪者で あり、彼等犯人の責任であるわけですが、一時にせよかの会社員を犯人として しまったことは私たち含めて大いに反省しなければならないことでしょう。 理性的にいえば、サリンを製造し、それを放出させて、故意にしろ偶然 の不注意にしろ、無差別に無関係の人々を殺傷したと立証できないかぎり、 どんなに警察や報道機関が限りなく黒にちかいという印象を与える発表や 報道をやったとしても、その会社員を犯人扱いにして誹謗したり、極めつ けたり、村八分にしたり、悪魔のようなどぎつい色彩で塗りつぶしたりす べきではない。法を侵犯しているかどうかと、道徳を侵犯しているかどう かとは、げんみつには関わりのないことは、法治社会での大原則だからだ。 また法の判定にたずさわる者が違法だとも法の侵犯だとも決定していない 以前に、その人物を違法者や罪人とみなすこともまったく不当で、社会の 公器を自称する報道関係者がなすべきことではない。またもっといえば違 法者や罪人にたいして道徳的に排除を施すことは市民社会の成員として必 ずしも正当な振舞いといえない。ここまで理性的な内省を加えたとき、松 本サリン事件でサリン発生源の近くにいて、自身も被害をうけて入院して いた第一通報者の会社員を、一時的にせよ犯罪人のように思い込んでその 印象をじぶんにたいして固定してしまったわたし(たち)は、決定的な錯 誤に加担したといってよかった。ましてや、そんな印象を与えて恥じなかっ た長野県警も、そういう印象を流布した新聞、テレビなどの報道も、決定 的な行き過ぎで不当だというほかない。ことに新聞やテレビの常軌を逸し たきめつけは心底から不快感を禁じえなかった。 未だ法と道徳が区別できていないのだなというのが、現代日本の社会なので はないでしょうか。そしてそれは私たち自身にもいえることなのです。 わたし自身もスターリン・ソフトや同伴者から偽の風評(うわさ)を意 図的に流布されて、心身の負荷に耐えた経験が幾度かあるから、この偽の 風評の発生源にたいして強い警戒心を失ったことはない。そして極端なこ とをいえば、じぶん自身で見聞きしたり、確認したことがない社会的評価 や酵母のようにふくらんだ風評は一切信ずるなというモットーをひそかに 内心に握りしめている。さらに偽の風評に便乗して人を陥れることに加担 したものを一切信ずるなとも考えている。それなのにじぶんもうかうかと のせられそうになってしまったとおもうことも、しこたま繰り返している。 人間というのは何ということになっているのだ。わたしたちは現在、飢餓 からやっと離脱できそうになった社会を獲得したかわりに、精神の病気を 途方もなく伝染させられる無防備な、お寒い心身の状態で、この社会を通 り過ぎようとしていることになっているのだ。 この私たちの社会の嫌な部分を、またしても地下鉄サリン事件で私たちは眼 の前にすることになりました。 この事件そのものは、犯人たちの悪質さとサリンという無差別な毒ガスの恐 ろしさを如実に私たちの前に提示してくれました。 この事件に対して、オウム真理教が関与している疑いのあることを断定した はじめての記事が以下だといいます。 *************************** 地下鉄サリン事件 オウムの犯行と断定 数人の実行犯特定 警視庁 95.04.16 朝刊 1頁トップ (全868字) 死者十一人、負傷者五千人以上を出した先月二十日の地下鉄サリン事件で、 警視庁築地署捜査本部は十五日までに、オウム真理教による犯行と断定、工作 部隊に所属する実行犯数人を特定したもようだ。全国各地の教団施設に対する 一斉捜索から押収したフロッピーや光ディスクの解析などから判明したもので、 数人のうち一部はすでに逃走している。このため、捜査本部では、全国警察を 通じ所在確認を急いでいるが、空前の無差別殺人事件は発生から一カ月を前に して、重大局面を迎えた。 これまでの調べで、地下鉄事件では、日比谷、丸ノ内、千代田の営団地下鉄 三線の五電車にサリン溶液が十一個置かれ、乗客が複数の不審者を目撃してい る。 捜査本部では、山梨県内の施設・第7サティアンから、サリン製造に伴う化 学物質が見つかったことから、オウム教団が地下鉄サリン事件に関与したとの 疑いをいっそう強め、テロ、拉致(らち)、信者連れ戻し・監禁などを担当す る工作部隊が実行犯として関与しているとみて、割り出しを急いだ。 その結果、全国の教団アジトや施設などから押収したフロッピー、光ディス ク、メモ類を詳細に解析した結果、実行犯数人の名前が確認された。 さらに、この数人に事件当日のアリバイがないほか、目撃情報の身体的特徴 が酷似しており、身辺捜査などから事件に深く関与していることが裏付けられ たという。 このため、十四日の全国百三十カ所にのぼる一斉捜索でも、数人の発見に全 力を挙げたが、一部の所在が不明となっている。捜査本部では、数人が口裏合 わせをしている疑いもあるため、全員の所在が確認されるのを待って、逮捕状 を用意して、一斉に取り調べることにしている。また、山梨県上九一色村にあ る教団施設・第7サティアンからは、すでにサリン製造の過程でできる中間・ 最終段階の物質や、副生成物や分解したときにできる残留物を検出したため、 この施設をサリン工場と断定。 新たに施設内の秘密実験室から十人以上の指紋を検出し、製造メンバーは化 学班の十三人にのぼるとみており、実行犯と併せてメンバーの行方を追ってい る。 産業経済新聞社 *************************** この記事について吉本さんは、「はじめてオウム真理教にたいする疑惑をはっ きりと断定した真面目な画期的な記事として映った。繰り返していうが、はじ めての真剣な記事なのだ」といっています。その理由は次のように述べられて います。 (1) 営団地下鉄、日比谷線、丸ノ内線、千代田線の五電車にサリン溶液が 十一個置かれ、乗客が複数の不審者を目撃していると、数字をあげて記 事にしていること。 (2) オウム施設から押収した資料を分析した結果、実行犯数人の名前が確 認されたと記していること。またこの数人の事件当日のアリバイがない、 目撃情報の身体的特徴がこの数人と酷似していると述べていること。 (3) オウム真理教の第7サティアンからサリン製造の過程でできる中間生 成物、最終生成物、とくに副生成物や分解生成物が検出されたと記して いること。ここに挙げた個条を記事にすることは、築地署捜査本部の作 りあげた嘘でも、産経新聞の作りあげた嘘をもとにしても、書くことは できないはずだ。またこの個条の嘘をデッチ上げたとしたら冗談や煽情 記事といって済まされる事柄ではない。 オウム真理教が犯人だというわけではなく、オウム真理教に対する警察の嫌 疑をはっきりと初めて責任をもって報道した記事といえるでしょう。この記事 以前の各新聞テレビでの予断をもった内容には呆れ返るばかりでした。 ここまで記してきたのだから、当然言うべきだと思うが、地下鉄サリン 事件以後わたしが読んだ新聞記事、テレビ報道ワイド番組のただの一つも、 信用する気になれないものばかりだった。記者たちは何も存在を賭けよう とせずに、無差別殺傷事件の犯人を疑定しようとしている。わたしはほと んど絶望的な気分になった。新聞記者たち、テレビキャスターやアナウン サーたち、ゲストとして出演している宗教ジャーナリストと称する男女、 宗教学者、そしてわけてもひどい法的無知は、オウム真理教脱出信者を救 援する対策の会と称する弁護士たちの言動にあらわれている。法律が地下 鉄サリン事件や脱会信者の誘拐犯の嫌疑を特定できないうちから、オウム 真理教にたいいして予断と偏見にみちた殺傷犯人あつかいの報道と吊し上 げをやっていた。ほとんど眼を覆うばかりの与太話でオウム真理教を殺人 者あつかいして指弾している。たとえ殺人犯と確定した人物にたいしても 差別したり、関わりのない弥次馬のくせに石を投げて憎悪を報いるべきで はない。まして法律はオウム真理教の教徒あるいは組織が、サリンによっ て地下鉄で無差別に殺傷したとする嫌疑すら特定できていない段階の出来 ごとだ。この段階で新聞やテレビの報道関係が先入見を一般の民衆に植え つけるのは不当きわまるもので、決してなすべきではないと説く法曹関係 の専門家は一人もいないのだろうか。素人がうかうかとのりすぎるのは、 まだ仕方ない。わたしはこの間の松本サリン事件、地下鉄サリン事件とオ ウム真理教犯行説の予断を結びつけて報道して何の恥じらいもないばかり か、まるで正義を背負いこんだ人間であるかのような調子の言説を臆面も なく、居丈高にふりまく報道機関にとぐろをまく知識人士にたいし、あら ためて深い絶望をおぼえた。 まったくこの間、テレビ等々で見聞した識者を見ていると、ごく少数をのぞ いては、もうそれこそ「ひでえもんだな」という思いを強くしました。なんで こんな風景しか私たちの前に提示されないのでしょうか。 さらに吉本さんは、この数々の報道で一方の当事者になってしまったオウム 真理教の麻原彰晃に対して次のように言っています。 わたしはオウム真理教の教祖麻原彰晃を、その著作から判断して優れた ヨーガの修行者だとおもってきたし、いまもおもっている。この人が失策 を演ずるとしたら穴(欠陥)はただひとつ、文明の歴史をすべて何者かの 陰謀としてとらえる退化した史観や社会観にあるとおもう。これはエコロ ジストにたいするわたしの考えとおなじだ。優れたヨーガの修行者がかな らずしも文明や社会や歴史や現在の世界情況の優れた分析や実行者とはか ぎらない、ヨーガの修行者だから、俗世間のことに関心をもつべきでない などとはいわないが、人はしばしば不得手な穴(欠陥)を拡大して誤るも のだとはいえそうな気がする。わたしにもしこたま愚かな経験があるから だ。 この麻原の欠陥の指摘はかなり決定的なものと思われます。ヨガの先生とし てなら、多分優秀な存在だっただろうに、麻原は何故か世界を明確に分析でき、 歴史を自らの思うとおりに流れるものと錯覚したときに、彼等が今直面してし まった現状をひきよせてしまったとも言えるのではと私には思えるのです。た だこれはひとり麻原のみにあるのではなく、エコロジスト、環境保護主義者、 清貧の思想の持主等々に多く感じてしまう傾向であるわけです。 松本サリン事件および地下鉄サリン事件をわたしたちがテレビ新聞等で見て いる限り、たしかに現在の日本のさむざむとした現状を如実に眼にしてしまい ます。たとえどんな凶悪事件が起ころうと、それに対して法により原則的に冷 静に対処できる社会であったなら、どれほど私たちはほっとすることができる ことでしょうか。そうした当り前のことができていないということが、大変に 寒々とした現在の情況を象徴しています。ただ、それにしても私たちはその現 在という中に、こうして原則的なことをきわめて冷静に判断論考できる一人の 吉本隆明をもっていることは、大いな喜びであると私は強く思っています。 (1995.05.11)都市博中止は是か非か
題名 情況との対話第29回−都市博中止は是か非か 著者 吉本隆明 掲載誌 徳間書店「サンサーラ」1995年8月号 定価 650円 青島幸男は都知事に就任してすぐに、知事選のときじぶんが公約に掲げ た「世界都市博覧会の中止」と、都議会がすでに決定していた都市博の開 催についての準備工事の進行のあいだの矛盾に当面した。軽味の芸を本領 とする青島幸男でも、都市博中止という公約など、どうせ知事に当選する はずがないから冗談半分に掲げてみただけだというように茶化すだけの器 量はなく、「悩みに悩み、熟慮に熟慮を重ね」たと声明文の中でのべてい る。わたしはほかのことは青島都知事を選んだ都市大衆の叡知に舌を巻く ほど感服したが、この公約はつまらない独りよがりだけで、都市大衆の利 害をまったく勘定に入れずに、じぶんの理念を大衆のためにつくすものだ と主観的に思い込んでいるだけの旧来の進歩派(スターリン・ソフト)を 一歩も出ようともしないし、破ろうともしない態度におもえて仕方なかっ た。 私が青島の「都市博中止」という公約を不快にしか感じていなかったことが、 まったく吉本さんによって、同じく語られているときに、私は自分が過去いわ ば左翼過激派であったときから今の私に到るまで歩んできた道がやはり間違い ではなかったようだなという確信を持ちました。まさしく自らは、自民党保守 派とは違う理念をもった進歩派なのだと思い込むだけの連中ほど、私にとって はただただ反吐の出るだけの存在でしかないのです。 吉本さんはこの文の中で、まず青島幸男が(大阪では横山ノックが)なぜ当 選したのかを分析しています。青島以外の候補者について述べている内容は思 わず笑ってしまいます。わけても大前研一についてのところは、これは大前も まいるだろうなと思ってしまいました。 大前研一は、たぶん候補者のなかでは政治的な見識も、経済政策的な見 識も、学問も、格段に優れているとおもう。でも都民大衆の票を獲得する のには何かが欠けているような気がする。ひと口に、欠けているものは見 識ではなく、大衆性だといってもいい。譬てみれば、芸術大学の声楽科の 研究生や教師が郷ひろみの歌唱は発声法が出鱈目だからだめだと評価した としたら、だめなのは研究生や教師のほうで、郷ひろみはやはり偉大だと、 評価できるような大衆への叡知がないのではないかと思わせるところがあ るような気がする。 実をいえば、大前は子どものときから吹奏楽や合唱をやっており、それこそ が自分の思考の原点なのだと言っているようなところがありますから、「郷ひ ろみなんて冗談じゃない」というところがあるでしょうから、それをわざわざ 踏まえて言っている吉本さんて、実に面白い人だなと思いました。大前はくさ りきってしまうでしょう。うん、もっとくさりきっていただきたいものですね。 さてそれで、青島の世界都市博中止の公約なのですが、吉本さんは都議会の 「決議」の要旨を紹介したあと、次のように述べています。 わたしの意見をすこし細かく言えば、次のようになる。 (1) 都市と文明の在り方について、できるかぎり世界じゅうの都市から展 示を集めるようにすれば、居ながらにして得られる知識、見聞、論議の 豊饒化は量りしれない。すくなくとも都市と文明のこれからの在り方に ついて飛躍的な進歩と知見をもたらす基になりうる。そのために博覧会 は中止よりも、もっと大規模なほどよい。 (2) 都市や国民が展覧を見物に出かけることで感性的な愉しみ、都市と文 明への見聞の豊さ、行楽の機会などが獲得されることをかんがえると、 都市の消費大衆にとって損になることなど何もない。 (3) あまりに期待をかけることはできないにしても都民や国民の消費が活 性化され、企業体の収益が刺激され、不況を脱するためのいくばくかの 経済好転をもたらすことは疑いない。 (4) もし企業体の不当な過剰利得や自治体職員との癒着が心配なら青島幸 男が、一般都民から委員を選出して、構想のなかに加え、監査するシス テムをもてばよい。 鈴木前知事は、青島幸男が世界都市博中止を公約したからといって、中 止を決定したことを「サリンを撒いたとおなじだ」と評したと報道してい る新聞があった。わたしなどもおなじような感想をもつ。こんなことをい うと青島や周辺の市民主義支持者は、鈴木都知事は保守派だから、その都 政とくに東京湾岸の開発や世界都市博は悪くて、企業体を利するだけで、 都民にとって無駄使いだくらいに思って、また大衆を誤るかもしれないが、 これほどの進歩派の嘘はない。米自由化反対というスローガンや、その前 の消費税反対のスローガンとおなじように、都民や国民大衆をだまして、 スターリン思想そのままの反動政策に奉仕させ、それが間違いであること が明瞭になった現在でも、何も責任をとらずにつぎの誤った反動政策を打 ち出す。どこにも自己の理念について内省を加えないまま、まだおなじこ とをやろうとしている。そしてまだ旧い区分けのままに進歩派は善で、保 守派は悪という固定観念を押し通そうとしているとしかおもえない。いい 加減に自分の党派本位の主観にすぎないかんがえを解体して、都民や国民 大衆一般(市民主義の運動者のことではないよ)の利害を本位とする普遍 的な場所に就くべきだとおもう。 確かに青島に限らず市民主義者や進歩派ほど、自らのみが善であり、保守派 や各企業体はすべからく悪だとしてしまう傾向が顕著です。そして一体こうし た傾向とどのくらい私たちは言い合いを続けてきたことでしょうか。これから もまだまだ続くに違いありません。またこれは、清貧思想の持主や反動エコロ ジストにも共通して見られることでもあると私は思っております。 吉本さんは青島の5月31日の「世界都市博覧会の中止決定に当って」とい う声明を全文紹介したあと、さらに次のように言っています。 軽味の話芸を身上とする芸能人が、真面目な顔して嘘をついたらおしま いだぜ。ようするに、この声明の言っていることは二つだ。 (1) 「都市博は撤回」というのは、公約であり、それで知事選に臨んだの だから、都知事に就任してこの公約をひるがえすことは都民のじぶんに 託した期待を裏切ることになり、都民の政治不信を決定的なものにする から、この公約を守ることが、いちばん優先さるべきだとかんがえる。 (2) 都市博構想はバブル最盛期の所産で、臨海副都心開発のきっかけとし ての意義を喪っている。現在の社会経済状況のもとでは成功するかどう かの危惧もある。 この二つとも不可解な言い草だ。もし「都市博は撤回」という公約が、 都民のために不当な公約だったらどうなんだ? そのことに何も触れてい ないではないか。そしてわたしは都市大衆にとって中止の方が不当な公約 だとしかおもえない。だから何故不当だったのか、なぜじぶんが都民のた めではなく、市民主義運動のためを都民のためと錯覚したのかを摘出して、 いさぎよく都市博進行の方向で、青島幸男の構想を宣明すべきではないか。 企業体に不正が起こらないように一般都市大衆から監査委員を挙げるとか、 都市博終了後に設備利用については一般都民大衆の利益を優先するとか、 青島にふさわしい方策はいくらでもあるはずだ。わたしは都市博が一般都 民のために不利益になるという理由を数えることはまったく不可能だとお もう。また経済的にも中止した方がかえって、都税を使い込み、不況を倍 加し、都民と都市と文明を委縮させることは明瞭だと思う。 そもそも私は青島が都知事選に出たときから、この公約に関してどこまでま ともに考えていたのか自体を信じていませんが、とにかく「都市博開催」に× を付けた以上、なんであれ、それをそのまま通そうとしか考えておらず、都民 のことなど何一つ考えていないとしか思えません。いったい都市博を中止する と、どう都民にとって利益になるのでしょうか。都市博を開催すると、どう都 民にとって不利益が生まれるというのでしょうか。これは彼が都知事という政 治家となった以上、彼自身の言葉で説明すべきことなのです。 個人消費が実所得の半分を超えた高度消費社会の先進国で、湾岸を構築 し、都市博を推進することが、社会経済を悪化させることなどあり得ない。 また不況をなかなか脱しきれない現状の社会で、消費活性化と少しばかり ではあるが企業効果を促進しないこともありえない。青島幸男の声明は、 ほとんど信じられない都市社会の貧困化の政策につながるとしか言いよう のないものだ。こんなことは、黒古一夫のような無智な文士にしか言いよ うのないものだが、青島幸男はいったい何を考えているのだ。ゴミ捨場の ゴミ処理を見学して、都民はゴミを少なく出すようにしないといまに東京 はゴミに埋まってしまいますなどと語るのをみて、もしかしてこの人はと んでもないことを考えていて、都市博の中止もその一環ではないのかと、 ふと危惧を感じた。高度の焼却技術装置を建設して、灰化したゴミで都市 の陸地を増強するという方策こそ、構想すべきなのだ。それは都市博を鈴 木前都知事よりももっとできるだけ大規模に実施するのが、都民大衆のた めだというのとまったく同じことなのだ。馬鹿な清貧主義による社会の貧 困化政策はじぶんたちの仲間だけのことにしてもらいたいものだ。 まったく清貧の思想などというのは、勝手に自分たちだけで自分の家だけで やってほしいものです。ゴミを適確にかたずけてくれるべき都知事は、それを 淡々とやればいいのです。何か私たちの生活の姿勢や生き方がゴミの増大に一 番問題なのだなどというのは、許し難いことであると思います。それなら、も うそんな人は都知事としてはいらない存在でしかないのです。だが、私はおそ らく青島はまったくそうした思考を持った存在であるのだろうと、今確信しつ つあります。 でもそうした都知事がいるとしても、私たちはまた一人の吉本隆明を持って いることこそが、とにかく嬉しいことであることはいうまでもありません。 (1995.07.07)
更新日:2004年10月19日