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1961年(昭和36年)
失業
 失業をしていたとき、街を職さがしに歩きながら、何か用事あり気に路をゆ
く勤め人や商人が、別世界の人間のように羨やましくてならなかったことがあ
る。わたしとそれらの人々は、たかが明日はどうなるか判らない職をもってい
るか、いないかのちがいにすぎないのに、まるで別世界の人間のようにこっち
だけが窪んでみえるのはどうしたことか、おれの思想は、この程度のことに耐
えないものなのか、こういった自問自答をなんべんもこころに繰返して歩いて
いた。
(「石川啄木」1961.4.10「読書新聞」に掲載 「自立の思想的拠点」1966.10
徳間書店に収録された)

   これは誰もが思い当たることなのではないだろうか。私も随分失業を繰
  返したから、そのなんともいいようのない想いに打ちひしがれていたこと
  をいくらでも思い出してしまう。公園のベンチに座って忙しげに歩く人々
  をずっと見ていたことがある。そうだ、この程度のことに耐えられないも
  のなのだ。


無精ヒゲを剃れ
 わたしが、学生生活の最後の年をおくったのは、敗戦直後であった。そのと
き「春の枯葉」という戯曲を上演することになり、許可をもらうために太宰治
をたずねたことがある。自殺の一年ばかり前だったとおもうが、そのとき、こ
んな問答をやったのをおぼえている。
 「学校はおもしろいかね。」
 「ちっともおもしろくありません。」
 「そうだろう、文学だってちっともおもしろくねえからな。だいいち、誰も
苦しんじゃいねえじゃねえか。そんなことは作品を、二、三行よめばわかるん
だ。おれが君達だったら闇屋をやるな。ほかに打ちこんでやることないものな。」
 「太宰さんにも重かった時期がありましたか? どうすれば軽くなれますか?」
 「いまでも重いよ。きみ、男性の本質は何だかわかるかね。」
 「わかりません」
 「マザーシップだよ。優しさだよ。きみ、その無精ヒゲを剃れよ。」
 わたしは、いま、学生に無精ヒゲを剃れといいきるだけの度胸はない。その
当時は、敗戦の混乱で社会はたえぎ立ち、わたしのこころは暗かった。いまは、
社会は息苦しいほどの秩序をもち、わたしのこころはおなじように暗い。当時
の闇屋の相当する商売は、いまの社会にはないのである。わたしは、太宰治に
ならって、精神の闇屋になれ、それ以外に打ちこんでやるものはない、とでも
いうべきだろうか。
(「現代学生論−精神の闇屋の特権を」1961.4.17「週刊読書人」に掲載 「擬
制の終焉」1962.6.30現代思潮社に収録された)

   太宰は吉本さんを飲み屋に連れていったようだ。ちょっとうるさい学生
  だなと思ったことだろう。でも太宰はよくこうしていいきれてしまうもの
  だなと思う。こんな出会いがあったことだけでも記録されておいていいだ
  ろうと思うのだ。


精神の闇屋
 現在の社会には有難い平和と民主主義が支配し(そうにちがいない)、これ
を守り行ない、破壊しようとする勢力に反対し……ということは認めても認め
なくてもどちらでもいいが、精神の闇屋たる資格はじつにこういう有難い社会
に存在する革命派とか進歩派とか保守派とか右翼とかいうものが、いずれも一
皮むけばまやかしではないかと疑うこころをもつことである。いいかえれば、
革命派や革命党になるまえに、かならず革命的であることである。
(「現代学生論−精神の闇屋の特権を」1961.4.17「週刊読書人」に掲載 「擬
制の終焉」1962.6.30現代思潮社に収録された)

   私には、こうした疑うこころをもつにはやはりある闘いを通らないと到
  達できないように思える。それが残念でもあり、あたりまえのことだなな
  どと思うこのごろである。そうするとやはり一度はなにかの闘いに人は出
  会うことがあればいいのだろうな。


昼寝をします
 安保闘争を勝利と考えたものたちは、政暴法闘争でも「勝利」するだろうし、
つぎに何々闘争でも勝利するだろう。そしてその果てには徹底他力、組織物神、
自己覚醒の放棄、官僚的屑の幻しかあらわれるはずがないのだ。敗北を知りな
がらたたかわねばならないときは必ずあるものなのだ。そのことはたんなる決
断のもんだい以外の何も意味しはしない。しかし、一度、敗北した方法で、二
度敗北することはだれにも許されないのである。「出掛けませんか」、「よし
ましょう、昼寝をしますよ」
(「頽廃への誘い」1961.6.25「われわれの現在」に掲載 「擬制の終焉」1962.
6.30現代思潮社に収録された)

   私はこの「昼寝をする」という吉本さんと最初に出会ったわけだ。私に
  はどうにも分からなかった。私はだれが昼寝をしようと、闘いは闘いだか
  ら、私は出掛けていこうと思っていた。60年代後半の闘いとは、皆そん
  な思いではなかったろうか。そしてまた私たちも敗北を知った。しかし闘っ
  たからこそ、敗北に到達しえたのだ。


詩作の過程に根拠をあたえる
 わたしのように、かきたいことをかく、といった無自覚な詩作者のばあい、
詩の体験はいつもさめたあとの夢ににている。そのあとに意識的な光をあてて
おぼろ気な筋骨のようなものをとりだすことはできる。だが、詩的体験からひ
とつのさめきった理論をみちびきだすことは、とうていおぼつかないのである。
いまわたしは詩についてある転換のとば口にたっている。予想もしなかったこ
とだが、自覚的な詩作へというかんがえがときどきこころをかすめてゆく。詩
作の過程に根拠をあたえなければ、にっちもさっちもいかない時期にきたらし
いのである。そのためかどうか、ここ二年ほどは、あたらしく詩をかく機会は
数えるほどしかなかった。
(「詩とはなにか」1961年「詩学」6月号に発表され、「模写と鏡」1964.12.5
春秋社に収録された)

   最初私は「詩の体験はいつもさめたあとの夢ににている」という言葉に
  ひきつけられました。私はよく夢を見ることがあるからです。でもだんだ
  んと読んできますと、吉本さんがいう「根拠をあたえる」ものとは、「言
  語にとって美とはなにか」をはじめとする吉本さんの仕事なのだと思い当
  たりました。でもそうなるとそれ以前の詩は、「無自覚な詩作」なのでしょ
  うか。私にはそう思えなかったものですから、「えッ」と驚いてしまうわ
  けです。そしてそうなりますと、自覚的とされるだろうその後の詩ももっ
  と見ていかなければなりません。


 詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれ
ないほんとうとのことを、かくという行為で口に出すことである。こう答えれ
ば、すくなくともわたしの詩の体験にとっては充分である。
(「詩とはなにか」1961.7「詩学」に掲載 「模写と鏡」1964.12春秋社に収録
された)

  「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想
  によって、ぼくは廃人であるそうだ」(「廃人の歌」)。この詩のこの語
  句は、私にかなりな力で迫ってきたものである。


自立
 「前衛」的コミュニケーションの方法は、現代の「進歩」的末端にいたるま
で採られている方法の範型である。これは、魚屋のおかみさんをオルグして母
親大会につれてゆこうとする平和と民主主義者から、市民会議の地域的な結成
をとく市民主義者まですこしもかわりない。
 もしも労働者に「前衛」をこえる方法があるとすれば、このような「前衛」
的なコミュニケーションを拒否して生活実体の方向に自立する方向を、労働者
が論理化したときのほかはありえない。また、もしも魚屋のおかみさんが、母
親大会のインテリ××女史をこえる方法があるとすれば、平和や民主主義のイ
デオロギーに喰いつくときではなく、魚を売り、飯をたき、子供をうみ、育て
るというもんだいをイデオロギー化したときであり、市民が市民主義者をこえ
る方法も、職場の実務に新しい意味をみつけることではなく、今日の大情況に
おいて自ら空無化している生活的な実体をよくヘソの辺りで噛みしめ、イデオ
ロギー化することによってである。
(「前衛的コミュニケーションについて」1961.12「先駆」1号に掲載 「擬制
の終焉」1962.6.30現代思潮社に収録された)

  「前衛」主義者や市民主義者はもう何年も何十年も変わりない。あいも変
  わらず、労働者や大衆をオルグする対象と考えて今もまた同じことをやっ
  ている。私たちの自立は私たち大衆が日々生活していることをもっともっ
  と見つめることである。そして私たち大衆を大政翼賛の方向にまたもって
  いこうとする、数々の市民主義者とやらのやることを絶対に拒絶すること、
  徹底してコケにすることである。


戦後の始まり
 わたしは、敗戦のとき、動員先からかえってくる列車のなかで、毛布や食糧
を山のように背負いこんで復員してくる兵士たちと一緒になったときの気持を、
いまでも忘れない。いったい、この兵士たちは何だろう? どういう心事でい
るのだろう?
 この兵士たちは、天皇の命令一下、米軍にたいする抵抗もやめて武装を解除
し、また、みずからの支配者にたいして銃をむけることもせず、嬉々として(?)
食糧や衣料を山分けして故郷にかえってゆくのは何故だろう? そういうわた
しにしても、動員先から虚脱して東京へかえってゆくのは何故だろう? 日本
人というのはいったい何という人種なんだろう。
 兵士たちをさげすむことは、自分をさげすむことであった。知識人・文学者
の豹変ぶりを嗤うことは、みずからが模倣した思想を嗤うことであった。どの
ように考えてもこの関係は循環して抜け道がなかった。このつきおとされた汚
辱感のなかで、戦後が始まった。
(「思想的不毛の子」1961.12「早大演劇免罪符」パンフレット掲載 「模写と
鏡」1964.12春秋社に収録された)

   敗戦を決定したのは、支配権力だ。この支配権力が「抵抗」といったの
  なら、我が下層大衆はまだ抵抗を続けたのだろうか。もっとも献身的に戦
  争につくし、もっとも犠牲を払った大衆はこうして投げ出され、支配階級
  はそのまま残った。だが大衆は黙ってかえるだけだったのだ。こうして戦
  後が始まった。


60年安保闘争
 安保闘争は、戦争を体験しない戦後世代にとって内戦体験に相当しているか
もしれない。そして、その挫折感は、わたしたちの敗戦体験に、それより規模
は小さいけれど匹敵するものがあるとおもう。そこで発揮されたエネルギー量
は大なり小なり、わたしたち日本人の自立能力が、ただ権力の言うがままに諾々
として武装を解除して故郷へ復員した日本人が戦後十五年でどれだけ変ったか、
どれだけ成長したのかの目安を示している。わたしたちの能力は、あれだけの
ものであった! そのことを噛みしめる必要があると思う。あれだけのもので
あった、という汚辱感のなかから再び未知の地点へ歩み入るのである。
(「思想的不毛の子」1961.12「早大演劇免罪符」パンフレット掲載 「模写と
鏡」1964.12春秋社に収録された)

   敗戦から15年たって示されたのは「あれだけのもの」であり、「あれ
  ほどのもの」だったのかもしれない。私は60年の世代ではないから、そ
  れがどちらなのかはわからない。ただ私も「思想的不毛の子」だ。そして
  60年のときよりは少しは成長できていた時代を作っていたのだろうか。
  そして現在はどうなのだろうか。


 また、当時も現在もかわらないわたしの基本的なかんがえでは、改定安保条
約は、日本国家=憲法の対米従属の表現ではなくて、戦後日本資本主義の安定
膨張と強化に伴い、米国と対等の位置を占めようとする日本国家資本主義の米
国との相対的な連衡の意志を象徴する法的な表現であった。改定安保条約の第
二条(経済協力の促進)における「締結国は、その国際経済政策におけるくい
違いを除くことに努め、また両国の間の経済協力を促進する」という表現、第
三条(自衛力の維持発展)における「憲法上の規定に従うことを条件として」
という表現、第五条(共同防衛)における「自国の憲法上の規定及び手続に従っ
て」という表現、第八条(批准)の「各自の憲法上の手続に従って」という表
現、等はこのことを明示しているといえる。それゆえ、昭和三十五年六月十五
日に最大の表現を見出した一連の行動は、岸政権によって保持されている憲法=
法国家を本質的に対象とする思想の表現であり、これを媒介とせずしてはどの
ようなたたかいも維持されないという理念にもとづいていた。
(「思想的弁護論−六・一五事件公判について」1965.7.19〜10.11号まで「週
刊読書人」に掲載 「自立の思想的拠点」1966.10徳間書店に収録された)

   だからこの60年安保闘争は、反米愛国や民主主義擁護の闘いではなかっ
  たのだ。この明確なる認識のもとに闘っていたのはブントを中心とする全
  学連と、吉本さんだけだったと思う。この闘いをまた明確に強力に阻止し
  ようとしたのは、日本共産党であり、また市民民主主義派である。私たち
  はこのことをけっして忘れることはないだろう。


1962年(昭和37年)
政治学は可能か
「政治学」は可能か、という問いは、必然的に問うものを現実のほうへ還元さ
せる。おなじように、現実の運動はたえず「政治学」の成立する契機をうみ出
す。この相互関係は、情況によって変り、また、たえず存在する。「政治学」
が、現実にたいして有効性をもとうとすれば、その径路は、たえず「体制」を
通じて、という以外はない。ひとりの「政治学」者は、政治学は可能か、と問
うことはできる。また問われねば「政治学」は成立しえない。これは「マルク
ス主義」政治学というものが、もともと成立しえない、あるいは、それ自体が、
背理である理由である。「マルクス主義」文学というカテゴリイが、それ自体
背理であるのと同じように。
(「丸山真男論」1962.1.15号から1963.2.15号まで「一橋大学新聞」に掲載さ
れ、「丸山真男論」1963.3一橋新聞部に収録された)

  「政治学」の学者がいるということが私には不思儀でした。現実に目の前
  に政治は存在しているのだ。その目の前の政治情況に対して、一体どうす
  るのかということを離れて学問としてのみ成立するとは私にはどうしても
  思えないのです。


丸山真男の天皇制分析のもっとも著しい特徴
 丸山真男の天皇制分析のもっとも著しい特徴は、日本において近代国家の形
成の過程で、国家主権の技術化、中性化がおこなわれず、国家が「国体」とし
て真善美の内容価値を占有する実体として保存せられたという観点にある。こ
れは「事実」として受取ればきわめて魅力的な考え方である。そして「理論」
的には、利害の共同性の一般化、抽出がきわめてあいまいにしかおこなわれな
いという日本的な存在様式の特質のもんだいとなる。そこまで抽象化しなけれ
ば、戦乱のなかでの「一般兵隊」の残虐行為を「それ自体真善美の『極致』た
る日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、
いかなる背信的行動も許容されるのである」(!)という地点から一元化し、兵
士そのものを「国体」のあやつり人形にしてしまうほかはなくなるのである。
(「丸山真男論」1962.1.15号から1963.2.15号まで「一橋大学新聞」に掲載さ
れ、「丸山真男論」1963.3一橋新聞部に収録された)

  「一般兵隊」が残虐行為を行ったのは、天皇制のもとでの必然的な出来事
  であったと丸山はいいたいのだろう。そして丸山はそういうふうに「一般
  兵隊」を見ているわけだ。そうなると、この一般兵隊である大衆が、天皇
  制のもとではなく、民主主義のもとでの大衆ならば、こうしたことは起ら
  ないはずだという錯誤が始まるのだと思うのだ。


大衆はそれ自体として生きている
 大衆はそれ自体として生きている。天皇制によってでもなく、理念によって
でもなく、それ自体として生きている。それから出発しない大衆のイメージは
すべて仮構のイメージとなる。ほんとうは、大衆の日本的な存在様式の変遷如
何として設定されなければならない問題を、支配ヒエラルキーが思想的に天皇
制から、ブルジョワ民主主義に変わった(あるいは変わりつつある)から、大
衆的な課題は、民主主義の擁護または確立にあるといった仮構のイメージで捉
えることになる。これは現在の丸山学派や類縁関係にある市民主義知識人のお
ちいっている一般的な錯誤に通じている。
(「丸山真男論」1962.1.15号から1963.2.15号まで「一橋大学新聞」に掲載さ
れ、「丸山真男論」1963.3一橋新聞部に収録された)

  この錯誤のもとに、彼らは大衆を組織しようとするのだが、大衆は集まる
  わけがない。集まるのは、隣にいる同じ市民主義知識人だけなのだ。民主
  主義が守るべきものでも確立すべきものでもない、ただの約束事なのだと
  いうことが少しも判っていないのだ。理念ではなく、ただのシステムなの
  だということが少しも理解できていないのだ。


ファシズム
 わたしのかんがえでは「ファシズム」は「スターリニズム」の変態である。
スターリニズムに耐ええなかったものは、アナキズム、またはアナルコ・サン
ジカリズムをめぐり、ファシズムに循環する。そして、ファシズムはふたたび
スターリニズムに円環する。この閉じられた円環をうごかすものは、情況その
ものの可変性にほかならない。スターリニズムは、それ自体の構造において、
情況の緊迫性にともない官僚主義に上昇するか、または、変質してファシズム
にまで究極的には円環するほかはない。
(「丸山真男論」1962.1.15号から1963.2.15号まで「一橋大学新聞」に掲載さ
れ、「丸山真男論」1963.3一橋新聞部に収録された)

   これは、実にその後の世界の情況が証明したことのように思います。そ
  して、スターリニズムを産み出したものは、やはり残念なことにマルクス
  主義であるとしか私には思えません。


スターリニズム
 わたしがここでスターリニズムとよぶものは、スターリン固有の政治理念を
さすものではなく、ソ連共産党を支配した官僚主義的な反対派圧殺や粛正をさ
すものでもない。そのレーニン主義的な「前衛」論が必然的なダイナミズムに
よって「前衛」主義にまで抽出される過程で、人民的な志向の核と必然的に矛
盾するまで閉じられてゆく政治的な実体をさしている。はじめに、労働者階級
の抽出された利害共同性を理念として成立した「前衛」論は、「前衛」主義に
まで昇華する過程で、必然的な質的転換がおこり、ついに人民的利害と前衛的
利害とのあいだに、あるいは人民的生活史と前衛的生活史のあいだに価値的な
転倒がおこる。
(「丸山真男論」1962.1.15号から1963.2.15号まで「一橋大学新聞」に掲載さ
れ、「丸山真男論」1963.3一橋新聞部に収録された)

   このことは、レーニン主義をいくら追及していっても、スターリニズム
  の出現は不可避のことに思えてくる。マルクス・レーニン主義にて、「ス
  ターリニズム打倒」をとなえた新左翼は、結果としてスターリニズムを超
  えられなかったのだ。レーニン主義そのものに、スターリニズムに至る道
  が用意されているのだから。


もっとも多く沈黙しているのは「死者」たちである
 安保闘争の戦士たちは多く沈黙している。もっとも多く沈黙しているのは「死
者」たちである。もっとも多く喋り、しかも、もっとも情報的にしゃべってい
るものは何であるのか。そして、もっとも多く弁解しながら、もっとも多くた
たかわないのは何であるのか。苛酷な思想闘争の現実のなかで、撓やかな鋼の
ようなこころで自らの思想を屹立しえないものは何なのか。敗退と挫折の認識
が情況の本源の奪取への思想的なたたかいとならず、安価な反射運動と安価な
内向運動へと外れてしまむ所以は何なのか。もちろん全情況の挫折を認識しな
いのほほん者は論外である。
 わたしたちは追及し、唯一のか細い道を照らさねばならないし、それをわた
したちのみがするだろう。
(「”終焉”以後」1962.10「試行」6号に掲載 「模写と鏡」1964.12.5発行
に収録された)

   60年安保の先輩たちも、私たちの時代も同じように思える。闘いもし
  なかった連中ほどしゃしゃりでてきて、嫌になるような空疎な言葉を連ね
  る。吉本さんがここにかかれたこととまったく同じ貌の連中はまったく同
  じように出てきたものである。だが私は今もそうしたことを忘れない。そ
  して私たちがやらなければ、「もっとも沈黙している死者」たちを鎮魂す
  ることにならないのだ。


詩的乾坤
 さいきん必要あって荻生徂徠の『国学弁』と『国学弁翼』とをよんだ。表紙
の話で恐縮だが、この二冊を当世流に上・下巻などとせずに乾、坤としてあっ
たのが気にいったので表題に借用することにした。かれら江戸期の思想家たち
は、あるいはこういう小冊子でも天地を包括する思想のつもりだったのかもし
れない。わたしの時評の題名は星めぐり季節はうつったが一年の文芸も詩的な
乾坤のなかにあるといったつもりである。
(「詩的乾坤」1962.12「文芸」に掲載 「模写と鏡」1964.12春秋社に収録さ
れた)

   ちょうど吉本さんは「言語にとって美とは何か」を書いているころであ
  る。かなりな吉本さんの息吹が伝わってくる。「勝利だよ!勝利だよ!」
  と叫んでいたころなのだろうか。そして私にとっては、現在の文芸の詩的
  乾坤とはどう考えられるのだろうか。



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更新日:2004年10月26日