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現在の位置|TOP→MENU→周のガラクタ箱→周の歌集→周の70年代の歌
私はよくどこでも歌を唄うほうですが、たとえ好きな歌でも、あまりに想い 出がありすぎる歌の場合には、哀しすぎて唄うことができません。 曲名 神田川 作詞 喜多条 忠 作曲 南こうせつ 歌 南こうせつとかぐや姫 一 貴男はもう忘れたかしら 赤い手拭 マフラーにして 二人で行った 横町の風呂屋 一緒に出ようねって 言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪がしんまで冷えて 小さな石鹸 カタカタ鳴った 貴男は私の身体を抱いて 冷たいねって 言ったのよ ※若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴男のやさしさが 怖かった 二 貴男はもう捨てたのかしら 二十四色クレパス買って 貴男が描た 私の似顔絵 うまく描いてねって言ったのに いつもちっとも似てないの 窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿 貴男は私の指先みつめ 悲しいかいって 聞いたのよ ※繰返し (1973年昭和四八) この歌が唄われだしたのは、私が大学を6年で卒業した年でした。ただ私には この歌がちょうど69、70年頃の自分たちをそのまま歌っているように思えた のです。もっとも、あのころこの歌に私と同じような思いを入れた人はたくさん いたろうとは思います。 ちょうど69、70年闘争が敗北に終りつつあり、しかもやっと70年の3月 に私はこの世界に戻ってきました。東大闘争で勾留されて、出てきたらまた芝浦 工大事件で勾留され、どうやら3月に保釈になりました。大学をどうしょうかな、 なんて考えていました。そしてちょうどそのころ、早稲田の戸塚町(今は西早稲 田)に私は同棲していました。ちょうど面影橋から早稲田通りにあがったあたり です。この歌のとおり、三畳一間で、家賃6千円だったと思います。あのあたり の銭湯(安兵衛湯ともうひとつへ)、この歌のとおりいきました。 アルバイト代が入ると小さなおすしやに入ったり、焼鳥屋に入ったりしました。 どこでも若い夫婦というので大事にしてくれました。ロアーヌというケーキ屋の おくさんなんかいつも優しくしてくれましたね。 曲名 赤ちょうちん 作詞 喜多条 忠 作曲 南こうせつ 唄 南こうせつとかぐや姫 一 あのころふたりの アパートは 裸電球 まぶしくて 貨物列車が 通ると揺れた ふたりに似合いの 部屋でした 覚えてますか 寒い夜 赤ちょうちんに 誘われて おでんを沢山 買いました 月に一度の ぜいたくだけど お酒もちょっぴり 飲んだわね 二 雨がつづくと 仕事もせずに キャベツばかりを かじってた そんな生活が おかしくて あなたの横顔 見つめてた あなたと別れた 雨の夜 公衆電話の 箱の中 ひざをかかえて 泣きました 生きていることはただそれだけで 哀しいことだと 知りました 今でも時々 雨の夜 赤ちょうちんも 濡れている 屋台にあなたがいるよな気がします 背中丸めて サンダルはいて ひとりでいるよな気がします (1973年 昭和四八) ちょうど高田馬場の西口には職安があって、たちんぼの仕事がありました。私 らは1日2千円くらいだったかな。当然雨がふれば、仕事はなし。そしてよく誰 のところでもキャベツばかりを食べていましたね。私は裁判を二つ抱えているし、 彼女も大学をどうしようかなというところでした。 70年の5月ころ大学へいくと、また私たちがよく名前も知らない後輩たちが、 頑張っています。そして私の話を聞きたがります。そうだ、この後輩たちとまた スクラム組んでやってみるかと、大学へ戻る気になりました。 それでまた元気な後輩たちと、さまざまな闘いの中へ入っていったわけですが、 この時代の早稲田の三畳間の想い出は、まったくこの歌のとおりです。神田川を 見ながら、彼女に手をふって都電に乗ったのをよく覚えています。 しかしその後、やがてはこの彼女とは別れてしまったわけで、もうこの時代が この歌とともに、遠い哀しい歌になってしまいました。やはり歌うことはできな いですね。なんであの時代はあんなに哀しかったのだろうか。狂わせたいの
曲名 狂わせたいの 作詞 阿久 悠 作曲 徳倉俊一 唄 山本リンダ 一 ぼやぼやしてたら 私は誰かの いいこになっちゃうよ これほど可愛い女は二度とは お目にはかかれない あなたに抱かれて かげろうみたいに ゆらゆらゆれるのよ 時には涙をやさしく流して すがってみせていい 私は恋の女 いつでも恋のどれい 好き好き好きで燃えて 狂わせたいの からだにつないだ鎖をはずして どこかへつれてって 必ずすてきな夢みる気分に あなたをしてあげる 二 ぼやぼやしてたら 私は誰かの いいこになっちゃうよ 欲しけりゃ欲しいとこころとからだで はっきり言っとくれ 一つの国でも 私に賭けても 決して損はない 今日から毎日 花園みたいな くらしが出来るのさ 私は恋の女 いつでも恋のどれい 好き好き好きで燃えて 狂わせたいの 真赤に色づく 私のくちびる こころを焦がすのよ この目を見たならあなたは二度とは 忘れてくらせない (1972年) この歌がはやったときに、私の作ったテーマが埼玉大学のむつめ祭の統一テー マとなりました。私が大学6年の時のことです。以下その時のプログラムに書 いた文章です。 ******************************** 狂わせたいの …………花弁はうずく女は叫ぶ 俺の墓はどこだ!…………… 60年から70年が「西田佐知子から藤圭子へ」の時代であり、内に黛ジュ ン、小川知子を含むとすれば、今は「欧陽菲菲から山本リンダへ」の時節、腰 の直線運動から回転運動への変遷の時といえるだろう。 我々は欧陽菲菲の出現は、日帝の蒋介石に対する最後の義理だてて勘ぐった ものだったが、その歌と共に左右に揺れ動く腰には純粋に今までの女性歌手の 腰の動きを完全に総括した最高のものがある。昔、「安保粉砕!」の声を聞い た御堂筋は、今、欧陽菲菲の腰をどう感じているのだろうか。少なくとも、た とえ豊かに見えようとも、八三センチのヒップには、もはや大陸反攻の夢も影 も見えないのだ。 欧陽菲菲の腰が歌に付随した腰であるとすれば、山本リンダの場合は、腰が 独立、歌が腰の前に拡散してしまっているのである。そして、前後左右の直線 運動ではなく、華麗なる回転運動なのである。 山本リンダが、あの大胆な衣装で「どうにもとまらない」と唄い出した時、 我々はまず驚異し、そしてどんなにテレビの画面にしがみついたことだろう。 何故あんなに腰が回転できるのか。何故あんなにまで官能的なのか。もはや山 本リンダには、横浜の港の暗い空は見ることはできない。見えるとすれば、敗 戦の日の真青な空と白い肌との、奇妙な矛盾だけである。 昭和20年8月15日、日本はかつてないほどの澄みきった空をもった。「ア カルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ暗イウチハマダ滅亡セヌ」(太宰 治)。滅亡への指向をもった青空を、「戦後」は欺瞞と痴呆の末に曇らせてし まった。 きょう咲きてあす散る花の我が身かな いかでその香を清くとどめん この益良夫の心を、「戦後」はどれだけ理解したろうか。西田佐知子や藤圭 子のもっているものが、「戦後への抵抗」の暗さとすれば、そんな「戦後」の 曇った空に生まれたのが、山本リンダ24才の白い肌と腰の回転運動である。 西田佐知子が「アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい」と唄っ たとき、我々の先輩たちは、たとえ死んでも、その先を見きわめたいという思 いをこめたろう。そして我々は、小川知子が『処女だ』と言い張ったときは、 かすかに笑い、黛ジュンの揺れるバストを思いながら、「雲にのりたい」と唄っ たものだった。夜汚いバリケードの中で藤圭子の歌を聴いたときも、拘置所で 独り、「……どう咲きゃいいのさこのわたし……」と聞いたときにも、我々に はまだその淋しさを突きぬけんとする思いがあった。「花弁がうずき女は叫び、 男は夜霧に消えていく」、やがて夜霧の彼方から、必ず戻ってくるだろう……。 そんな思いがまだあった。 「雨降ってぢ固まる」我々はやっと、ぢを固めて戻ってきた。もはや我々はど こへも行きはしない。そんな思いは棄ててしまった。今の我々が求めるのは、 政治ではない、思想ではない、女の腰であり、捜すのは俺たちの墓場である。 そして自らの墓を見つけ出したなら、すぐに粉々に打ち壊してしまうだろう。 我々は死に場所を求めているわけではない。花弁のうずきを目の前にし、耳を ふさぐことなく、女の叫びを聞きながら、自らの観念の所産を打ち壊すのだ。 今、山本リンダはノーブラ、ノーパンの真赤な衣装で「狂わせたいの」と登 場してきた。またも激烈な回転運動で。彼女のあの姿、あの腰の回転運動を見 て、狂わない男がいるだろうか。ただ、どんな男も求めるものは同じでも、突 きぬけられるのは我々である。 さあ、今年も又、徹底して酒を飲み、べっちょ的にべちょろう。 (埼大歴史研究会ダッケ派) −第23回むつめ祭プログラムより− ******************************** このテーマは大変に物議をかもし出しました。まず当時の日本共産党民青が、 大量のビラをまいて、かつ建て看板を大量動員して、このテーマをけなしまし た。なんでも、東大や東北大の学園祭のテーマは素晴らしいが、埼大のむつめ のは最低だというような内容です。しかもそれを比較して書いてくれました。 ほとんど、私のが一番いいじゃないかと思わせるのですが(私のがいいわけで はない、それらの大学のはすべて日共のテーマだったからだ)、私はたいへん に嬉しかった。なんであんなにまで、気にいって宣伝してくれるのだろうと、 そのうち「日共諸君ありがとう」というビラを出しました。このビラほど大量 に読まれたビラもありません。その後、日共は沈黙してしまいました。 私はそのビラに、ついでに私のテーマおよびむつめ祭をけなした、女解放戦 線という連中と、共産同叛旗派を徹底批判しました。ついでに、革マル派もけ なしました。叛旗派には私のシンパがたくさんいたので、可哀想でした。女解 放とかいう連中は、その後10年くらいたって私にあやまってきました。革マ ル派はなんにしろ永遠に許しません。 しかしこの時には、実は下宿にテレビなんかなかったから、山本リンダの歌 を聞くのはなかなか機会がなかったのです。テレビの見すぎだなんていわれた のですが、見すぎなほどテレビを見たいななんて思いながら、いろいろ頑張っ ていたのを思い出します。
更新日:2005年08月21日